近況とかか。

 どうもヒッッサしぶりに日記タイトルに句点をつけた妄誕Fです。作者名はもーなんでもいいかなと思います。うーん、モゴモゴ。で近況なのですが、まずなんで今ここでこうして日記を書いているかを打ち明けねばなりません。なに、大したことではないのですが。顧みれば前回の日記から実に、うーん二週間くらい? 実測値で二週間半ほどが経っているわけで、いや改めて数値に直してみるとそーんなでもねえかなって気はしてしまうのですが、それにしても前回の日記から幾光年(距離です)の感慨がしてしまうのは、実際生活いわゆるリアルってやつの密度があるからなのかななんて思ってもみる。基本的には学校行って授業受けて帰宅してああ勉強できてないなーと思いながら寝るだけなんですけどね。でもそのなかで小さなイヴェントがいくつか僕の心の時間を埋めているのだと思います。その一方で年をとったせいなのか時間の経つのが早くて、同年代の学生諸君もイヤと云うほど気づいているとは思いますがなんか大学入ってから今までアッという間だぜ。という。まあ現在から過去をみてその時間を測ること自体われわれの認識能力からして無理な話なのかもしれません。基本的に、過去のある時点から今までというのは、始点をどこに定めるにせよ「あっという間」なのではないかな。まあそんな考察もおいて、ともかく大学入ったのが今やものすごくものすごく遠い昔に感じられて、高校時代なんてもう果てしなく果てしなく手の届かない世界で、それより前って言ったらもうフィクションなのではないかって感じがするんでございますね。ここで再び日記タイトルを一瞥するに、これは僕はただ近頃は過去を顧みて懐かしがってるだけの近況に確定されて終うんじゃんと気づきましたので次の段落では僕の最近のことを書きます。
 ところでなんでまた日記なんか書く気になったのかといえば、部活の院生の先輩が語っていた言葉にナルホドと膝を打ったからなのです。その具体的な内容にかんしては気が進まないので省略しますが、その人は言葉を尽くして考えてみる(そしてその限界にぶちあたる)ことの重要さを説いておられたのでした。そこで自分の近頃の生活を省みるに、俺は哲学科なのにちかごろ自分で考えるということをしてこなかったと。そりゃ学科の勉強がちょっと忙しいということはある。具体的にはドイツ語の読解に追われてる毎日で、まあ古典にあたることはどこかで必要になる作業なのではあろうがでも語学だけで哲学教育といえようか! というのは愚痴なのですが教育について本が読めてないので哲学教育ーなんて偉そうに語れないし語学が必要なのは事実だしそれを身に付けるにはそれ相応の時間と努力が必要ナンダということも承知せざるをえない、するとこの現状を肯ずることもやはり避けられない。問題はその状況のうえでうまーく時間を割いて読書なり思考なりすることだし、それは強ち無理なことでもない。哲学科の勉強が大変なのはア・プリオリに真実なのだ。念のため、今のアプリオリは誤用です。なので今からまたドイツ語のリーディングの授業の予習をしたいと思います。します。では。本が読めるとか読めないとかはまた近いうちに書きたいと思います。

にっきっき

 せっかくなので日記を書こう。ごちゃごちゃしているが目の前のことから、ひとつずつ書いていこう。
青色28号が更新している。いや表面的な話で恐縮なのだが僕はd:id:murashit(と、これもひとつの呼称に違いないのだけども)を「青色28号」と呼んだものか、「murashitさんとこ」と呼んだものか、旧称「青色2号」(個人的には今の名前よりこっちのほうが好きだ)と呼んだものか、よくはっきりしない。今マンションの階段を駆け上がり駆け降りる子供たちの音がしてうるさかった。雨の日の空気はそんな迷惑行為さえ情緒に変換してしまうのだから偉大なものであるというか。わざわざカラオケボックスに足を運んで手続きしてお金を出さないと朗々と歌うことさえできないこの社会って何よ、すなわち歌を歌うことが迷惑行為と解されてしまうひとつのせつなさ。とか。でも勉強してる隣で歌われたらうるさいしな。で、話がそれましたが僕は青色28号の更新をわりと楽しみにしているほうです。正直に言って、かつて毎日更新をチェックしていたいくつもの日記サイトを僕は恒常的には見ていない。アマチュアの輝きがなんだの、対象ではなく自己を語れだの言っていたわりには、近頃は役立つ情報ばかりに好意的なふるまいをしている。回線の向こうにいるかいないかよくわからない相手よりも、顔と声と名前の知れた部活の同期や学科の知り合いに親近感を覚えるのは……まあ物質として限定された人間の弱さってやつに帰すのは気持ちのよいことではないにせよ、一面では仕方ないことかなと諦めてもいる。部活だってよ。ううむ。さっきから、それこそ対象について語ってなくて申し訳ないですが続けると;そんなふうにネットに対して消極的になった今でも、青色28号の更新はよくチェックしている。まあチェックしているっつってんで印刷して何度も読み返すわけではないけど。
 臆面もなくこんなふうに書けているのは、やはりこの疎遠さのせいなんだと思う。で;僕が青色28号の更新を、また階段を駆け上り降りる子供たちの音がした、うるさい。情緒じゃなくなりかけてる。僕が青色28号の更新をこうして取り上げたのは、それがうれしいことだったからなのですが;作者のmurashitさんのTwitterでの発言は見てるんですが、ああまた階段が。でもTwitterでの発言って薄くないですか。Twitterで書かれたもの全般に言えると思うんだけど。140字の制限によって切り捨てられた考えられたことがものすごくあると思うんだ。というよりは実際僕は切り捨てている。思念の核心を抽出するだろ。でもアマチュアたる私たちが言葉によって或る力を持てるとするならば、それは切り捨てることによってではなく、しつこく付け加えることによってなのだと思う。思うってかこれは信念でしかないのですが。くそ。ぜんぜん対象について語っていない。いや、そもそも対象について語る気なんてなくて、僕はその対象をきっかけとして日記を書こうと思ったってことだ。申し訳ないけど。人間と人間の影響関係ってだいたい(自然状態では)そういうものだと思う。それにしてもこの偉そうな俺は一体誰なんだってことだ。ま、俺自身、なのですが。
 上にリンクを掲げた記事では「長い」と自称してるけど、僕はそんなでもないと思いました。それは小さな節に分けてあるせいかもしれない。心理的な短さだ。でもいま文字数カウンタにかけたら5305字になってた。けっこうな長さだ。でもそのくらいの分量の記事、みんな日常的に読んでるんじゃないのか。それって実は一部の人だけってオチか。まあいいや・それは特別言及したいことではない。言及ついでに話をつなげれば、僕は長い日記が読みたかったんだわ、ということか。戦略を立てず、ぐだぐだああでもないこうでもないと、あるのかないのかわからない対象を捉えようとする、書くという活動を僕は感じたいのかもしれない。しれない、けど保留。
 というわけで結論は出ずに終わる。それにしても、大学入ってそれなりに充実っぽいフリしてても、やっぱ好きなことを好きなだけ語る機会ってないわけで。尚、言い忘れていたが(そして言うほどでもないのだが)、この日記はひさしぶりにTeraPad(MSメモ帳でも可)で書かれた。そしてファイル名はnikkikki.txtである。ふざけている。ということだけ。それではまた!

大人その3

 今日はメモ程度で。
 大人になると「不合理な」疑念に悩まされることもなくなり、生活は快適になる。そうすると言うことも変わってくる。ここで困るのは、大人の私が言うことは、子供の私から見て疎ましいということだ。なんか知らんけど。言ってることは正しいんだけど。それは大人の私が捨てているものを知ってだろうか。形而上学的な深みが足りないとかいうことだろうか。それだけじゃない気がするが、実はそんなところかもしれない。あるいは陰影がない、ということか。一面的である。それはそうかも。言えることだけを完結させて言う。あらゆる面を一度に検討しようとはしない。そんなところが不誠実に見えるのかもなあ。しかしこれには大人側からの弁明がある。それはまた今度。

大人その2

 自分のなかに生じつつある、あるいはおおかた生じきった?変化について、少しずつ書きくずしていくコーナーです。大人と子供?をつなぐ何かを残したいと思って、日記カテゴリ内の連作風味で発信していこうと思います。いずれにせよ独りよがりかも知れませんが――。
 ↑の日記というか記事というか日記?を読んでいただけると分かるように、僕にもどうやら後輩なるものができました。中学は部活に入ってはいたものの参加してなかったし、高校はこれに懲りて帰宅部を選択し(それを後悔し)た、というのは一度か二度どこかで書いた気がします。中学での反省を生かした高校での選択を重ねて反省して、大学ではと或るサークルに入った、そして一年が経ち、僕が進級するとともに新しく生徒が入学してくる。こうして後輩なるものは生じます。かようにして後輩ってのはしかるべき環境に身をおいたら放っとけばできるものなのですが、でも或る感慨を覚えずにはいられない。意味づけるとすれば、〈まともな環境に身を置いた〉ということですね。そしてやはり環境は人を変える――。
 もう一つの変化として、現実の他者とのコミュニケーションの場面を日記に取り上げたこと。今まではなんだかんだ言って身内バレあるいはネットとリアルを混ぜこぜにすることに警戒して、こういうものは取り上げないかぼかして書いていたのですが、もうそろそろいいかなと。このへんは世界に対する慣れとそこからくるある種の blindness ですね。目的のための手段をあまり選ばなくなったとことか。

言外の意味によるコミュニケーションの齟齬

(部室のロッカーに貼ってある写真を指して)「この写真、○○くんが撮ったの?」「ああ、剥してもいいですよ」
 っつう次第で困惑でした。○○くんの写真をほめるつもりで言ったが、言下にその目的を無効化されてしまい、うろたえた。僕はこのとおりコミュニケーションに不得手なので、この後ちぐはぐな返しが出たのは言うまでもない。まあ控え目さが有利な性格となりうるこの社会とか、分不相応なマネをしないのが理性的とか、良い点より悪い点をあげつらう方が容易だとか、そういうことはあって自分の作品を卑下したくなるのはわかるけど、こちらとしては好意を端っから折られたのでやはり残念な思いがした。
 これでなんで失敗したのかなあというと、主に僕が言葉足らずだった、というのが挙がると思う。言葉足らずというか、暗黙の言語の介入を広く許している。暗黙の言語といったが、要するに「言外の意味」のことです。そして、困ったことに言外の意味はしばしば発語の本意を担う。というか日常の会話では文の内容じたいがそのまま「言いたいこと」である場合はむしろ少ないのではないかな。上の例で言うと「この写真、○○くんが撮ったの?(なかなかいいね)」ないし「この写真、○○くんが撮ったの?(そしてこんなとこに貼ったの?早く剥がせよ)」というふうに。ちなみに前者が僕の内心での意図でした。で、前者にも後者にもとれるような発言をしたのが今回の失敗のひとつだった。僕はふだん言外の意味ってやつを充分考慮せずにしゃべってるので、先の発言は純然たる Yes/No 疑問文として処理してくれることを期待してたんですよねー。「この写真、○○くんが撮ったの?」「そうですけど」「俺はけっこう好きだよ」と。しかし実際はここで見てきたように、発話された文はどこかにある「本当の意図」への道しるべとしてはたらき、その内容は発話の中心的「意味」にはならない。ここで相手が発話意図の判断を誤るとコミュニケーションの齟齬が生じるわけです……。
 そういうわけでした。以上てなもんで、この話の教訓としては〈日常の会話においては、“言外の本意”をうまく導くよう言葉を選ぶべし〉ということになりますね。いやまあ「どうやって選ぶんだ」という問題には答えられてないんですが。もう一つの道として、言葉を尽くして自分の言いたいことを説明する、というのもあります。「この素敵な写真、○○くんが撮ったの?」みたいに。まあどちらかと言わず、場面に応じて適用しやすいほうを適用すればいいんでしょうねー。

精神の鈍さ

 学科の勉強(ほとんど語学、ドイツ語)がわりに忙しい都合で、なんか最近創造してないなー。創造つっても日記で自分の意見を言うくらいのものなんですが、それでも input に次ぐ input では精神によくない。 output でも他人の意見を繰り返すんでは物足りない。いや語学は input と output が揃ってるのでそれはそれでいい。問題は創造のヒマがないということで。創造するっつうのは僕の所属してる学科に引きつけていうと、べつに高尚な意味でなく哲学したい、具体的内容としては日々気になってることを心ゆくまで考えてみたいと。いろいろ取り入れた知識見識をぐるぐる混ぜて新しい形に精製する、あの創造。いろいろと興味の向くままに知識認識を深めるアレが欲しいよねという望み。時間が欲しいむしろ古代ギリシア的に暇が欲しい。うそ、大学生は暇だっていうじゃん。事実社会人よりはずっと暇なはずだ。それなのになんかそれでも暇が足らないと思っちゃう。それは精神の鈍さなんだと思う。頭の回転の遅さなんだと思う。読書もするし活動もドンドンできてしまう人というのは、僕とかより時間が絶対的にたくさん用意されてるのだ・神が差別しているのだというのではなく、やはり僕と同量に用意された時間を密度高く使えているのだろうなあと思う。頭の回転の速さ、同じ時間にどれだけの内容を詰められるか。体感時間。そんなものだ。僕は本を読むのが遅い。遅いだけでなく読んだはしからひとつ前の文の内容を忘れている。これも精神の鈍さからきている、と、経験が言っている。経験がものを言う。擬人化ってかそれは関係ないんだけど。でもまあそうすると僕も多少はもの分かりのいい大学生になりましたから、今後どういった方針で問題を削っていくかってのもだいぶハッキリさせられてるわけですし、事実少しずつ改善もしてますってば。精神を鋭敏にする。概念的で verbal なテクニックだけでなく、脳の本とかも読んじゃいますよ。ハードウェアを充実させる必要がある。このアナロジーで言うならば、適用したいソフトウェアにハードウェアが追い付いてない、ってとこでしょか。分かり易くてよいですね。以上です。 Twitter で書いてる人が日記に戻ってくることを望みます。

排除の論理(つまり、多様性を好ましいと言うなら自分と違う他者を認めなければっ)

 書くことがない。ということで日記を書いてみようと思います。むろん探してみると話題はあって、どんどん遠くまで書いていける気がする。ただそれは強いてあなたに伝えるべきことではないので、とりたてて「書くこと」ではない。かつて、僕は(非政治的な意味で)世間に問いたいことを日記に託してウェブに投げかけていた。今はどうか、っていうと、だんだんと、いや今から見ればかなり古いときから、広い意味で「おもしろい文章」を書きたい、という意識に傾いている。おもしろい文章っつうと昔テキストサイトの一部の人がいってた「おもしろい」に対する執着を思い起こしてなんか違うなあ。こうもっとこう、たとえば詩を読んでて感じるようなおもしろさです。意味のおかしさではなく、読み取られるおもしろさ、違いを発見すること、っちゅうか。でも中身の薄いことをあまり語ると煙たがられるので止めます。
 話は変わる。世の中に……というか人間のなかに、言葉で語り難いものがたくさんある。語り難いというのは、なにか触れちゃいけない気がするということではなく、語るのが技術的に難しい、ということです。これは学習者がしばしばぶつかる「何がわからないのかがわからない」という課題に似ている。この課題に対する有効な解決策は僕は知らなくて、せいぜい周辺の知識をふやして空白を逆に浮かび上がらせることを考えつくくらいです。んーつまり、この語り難いというのは自分がなにを語ろうとしているのかが見えない、ということである。なにか(自分にとって)重大な問題を垣間見た気がする、しかしそれは瞬時にフェイドアウトしていってしまう。たぶん集中力がないんでしょうね。その疑問は通俗的でないゆえに、それを語る言葉を自分で作り出さなければならないかもしれない。それは文学者の作業だ。負担がかかる。そんなわけで困ってます。
 語れば語ろうとするほど対象が遠のいていく、という実感を覚えることはかなり少ない。対象について言葉を重ねることは明晰な認識に近づくことだとおおむね考えている。だけど他方で Twitter の 140 字の制約は、われわれが明晰に語れる(ように見える)ようにしてくれて、心地よいと思ってしまう。僕はものごとを明晰に捉え、考え、語りたいという欲求を自覚している。だから Twitter は或る意味で楽園だ。ウソです。僕は Twitter に永住したいとは思わない。 140 字で語れることなんて高が知れている。 140 字にまとめられた背後には、見捨てられ切り捨てられた幾多の疑問の死骸が横たわっている。なんで今ポエマー的に書いてるかっていうと遊んでるだけです。まあとにかく、 140 字でじゅうぶんに語れることってのもあるけど、それはむしろ生活のごく一部でしかない……というのは言いすぎかもしれないが、やはり Twitter でしゃべるときは Twitter で扱い切れないものをことごとく切り捨ててる、というのは事実だと思う。そんなわけで僕にとって Twitter はつかの間の明晰感を味わえる、休息所みたいなもの、ですかねー。
 あと、タイトルは日記内容にあわせてつけたのではありません。