大人その5

 そうだもう一つ。先日テレビで映画を眺めていて、ふと「物語の味わいかた」みたいなもののコツを掴んだ(気がする)のですが、そしてそれはそれで喜ばしいことなのですが、でも「物語を物語としか消費できない」型にはまってる感じがして、おおげさに言えば不安にもなる。抽象的な書きかたで申し訳ないが、ある手順にしたがって(まあ、具体的には複数人物がいて、そのキャラクターであるとか他との関係とか彼・彼女が直面する事態とそれに対する行動とかに注目して)映画とか小説とか漫画とかを“処理”すると、それが「物語の意味」として捉えられてくる。「物語の意味」は、それを作品の主張として取りだすこともできるし、また作品を語るにも一定の軸を確保できて便利である。たぶんこれも“科学的な取り扱い”の一環だろう。
 だが、それと引き換えに失われるものもあって、それは要するに作品の自由な受容、とでもいったようなものだ。本を読み始めた頃、僕は(やや単純化して書くが)物語がどうとかいうことを意識せず、単にその本や映画などを楽しんでいた。そこで何を受け取っていたのかはもうほとんど思い出せないが、「物語の意味」とはまた別の質をもった何かだった……気がする。というか、そう言いたくなる。プリミティヴな体験には、洗練された受容にはないなにか特別なものが含まれている、そう思いたくなる。事実それは正しいのだと思う。でも、大人の立場から今は(試験的に)言ってみたい。その「なにか」って、単なる新奇さではなかったか、と。目の前に新しい世界がいま開けていることへの驚きや喜び、そういうものが原初的な体験に固有なものではないだろうか。
 そして、“それだけ”だとするならば、洗練された物語の処理によって失われたものに対して馳せる思いは、単なる郷愁、ということになりそうだ。確かに、新しいものに触れたときの固有の感じ、は、もう二度と同じものを感じられはしない。でもそれって「戻ってこない」ってだけの話であって、物語の読みかたを覚えたことによって背景に退いてしまった類のものではない。実際のところ、僕はしばらく、1〜2年くらい?の間、小説の面白さというものを喪失したままでいて、いやまあそれは大げさな表現なんだけども、小説に対して積極的な態度をとれないでいた。それは、今までの流れでいえば、新しい世界の魅力にひかれてどんどん本を読んでいた時期が終わって、単に小説というジャンルの本があるという世界に投げ出された、と説明することができる。
 そうして一度、モチベーションのない状況に落ち込んだあと、どうやらまた小説を読める状態にふたたび引き上げてくれそうなのがこの「物語の読みかた」だ、ということ。小説を読む楽しみに新しく気づかせてくれそうな考えかただ、と。そんな整理でした。もちろんこの話とは別に、小説の楽しみかたが「物語を読む」だけではない、ってのは直感的にわかる。たとえば実験的なメタ文学みたいのもあるし。だから本の読みかたは複数あっていいし、それらもいつか獲得できたらと思う。
 (それにしても高校生の僕がこれ読んだら怒りそうだなー……)