「的」の役割

 〜的、というときの「的」。これがあまり好きではなかった。世界的不況、といえばそれは世界規模での不況だし、哲学的思考といえば哲学がおこなうような思考と言い換えられる。つまり「的」を用いた表現はそれぞれ別の表現に言い換えられる、そしてそうすると、「的」という言葉は必要ないし、別のより的確な表現を探すのを厭うて「的」を使っているようにも見える。そんなわけで僕は「的」を使った文章、そしてそれを頻繁に用いる筆者にいい印象を受けなかった。
 ところが先日この意識の転機があった。辞書を引いてみると、「的」というのは中国語の助詞を音読したもので、これは日本語でいうと「の」にあたるという。だとすれば「的」の意味があいまいなのも肯ける。あてはめれば世界的不況は「世界の不況」だし、哲学的思考は「哲学の思考」を(おおむね)表すわけだ。ここで「的」は、いわば「の」を格好つけて学術っぽく言い換えたものと納得できる。
 しかし「的」の効用は格好よく見せることだけではない。すなわちこれを用いることで「の」の繰り返しを防ぐことができる。いま用いられている「的」の広範な意味を無視して「の」の単純な言い換えと見なすと、たとえば「科学的発見の論理」というのは「科学の発見の論理」と読める。意味的には……もとい意味の観点から言えば、これはどちらでもいい。ただ「科学の発見の論理」だとどこで切れるのか分かりにくい(「科学の発見/の論理」なのか、「科学の/発見の論理」なのか)し、「の」が連続していて快適でない。この場合は「科学の発見/の論理」なのだが、それでもなお「科学の発見」が「科学を発見すること」なのか「科学による発見」なのかは読めない。ここで置き換えを解除して「科学的発見の論理」と言うと意味の切れ目もわかるし、実際のところ「的」は「の」よりも狭いので意味がとりやすくなる。
 以上、「的」は効果的に用いることで文章を読みやすく分かりやすくするという話でした。問題なのは、そのまま言ったほうがわかりやすいのに「的」を使って意味をあいまいにしてしまう場合だ。

大人その1

 どうかんがえても最近はネット活動が縮小しているので、 Twitter やめてここにどうでもいいつぶやきとか載せようかと思いつく。それがどこまで実現されるかは分からない。こうして断言調でものを書くとき、余分ななにかを切り捨てている。頭に浮かぶ少しの疑念を一瞥ののち見捨てている。ほんとうはその小さな疑念まで考え抜いたうえで断言するのが誠実だ。でも最近はそうしていない。効率。そういうことだと思う。生産性。そういうものが僕をこんな判断に導いている。たとえば満足に読書するためにはそういう態度が必要だ。そうか? しかし断言しすぎのようにも思う。絶対的な言明が事実上不可能だからといって常に奥歯にものが挟まったような言い方をするのも快適でないが、かといってすべてを断言するのは思考の放棄だ。極度の、あきらめた〈大人〉だ。だいたい人間が年をとっていくに比例して〈大人〉に振り切れていくのではなくて、ある時点で〈大人〉分を手にするのではないか。〈大人〉を手にすることで〈子供〉を捨てていくんではなくて、なんつーか両立しうるっていうか……、そう語ってくるとどうも恥ずかしい気がする。単なる理想論の匂いが強いからか。だがまあ〈大人〉と〈子供〉を使い分けることはできるように思う。そういうのが成熟した人間の姿だと思っている。

最近の

 私です。名乗んなくなっちゃったねいつのまにか。名前なんて対象を指示する道具でしかないじゃん、みたいなノリで。で最近なのですが年度が変わって部活の新入生歓迎にぼちぼち参加したり、たぶん人生で初めてまがりなりにも後輩というものができたり、風邪で寝込んでるあいだに授業が始まってたり、いよいよ本格的に学科の勉強が始まるんだなあという予感を受けたり、高価い教科書を買おうか迷ったり。そんな感じです。ほんとに「そんな感じ」だなー。自分で書いていかにも大学生っぽいなーと思いました。あと一般教養の授業で先生がしゃべったことで少々奮起したり。
 であまりに大学生っぽいので内省日記が書けません。こないだの休みは内省日記を書こうとして消して書こうとして消してから Twitter でブツブツやってたんだけど、仔細はともかくとして近頃は書き散らすより構築するほうに意識が向いてるみたいだ。自分用語でまとめると「大人」が顔を出してきて「真人間」になりつつある、ということで、まあなんとなく理解いただけると思います。でもせっかく「外部」から世界を眺めていた経験があるので、その見方はどっかに残していきたい。と言ってこの外部性から完全に抜け出せてるかというとぜんぜんそんなことはないんだけど。
 で何でそれで日記書いてるかっつうと読書メーターは継続してますヨっちゅうことを云うためだけに筆を執ったんですけどもね。 10 日間くらい放っといたので奴め早速三日坊主かと判断された方もいると思うんですが新入生還元……新入生歓迎の関係もあり私の読書の遅さもあり、掛け値なしでこの速度です。まあそれはおいおい改善したいと思います。おいおいっちゅうか、今からね。はい。で多分なんですが今後は大学メインで生活するはずなので日記を書く頻度は下がります。いま日記を書く必然性も失っているところですし。といって書きはじめるといろいろ出るんだけどさぁ。でも書くきっかけがあまりないので、ということで。まとまった文章は html のほうでちょっとだけ書くかもしれません。いずれにせよそのさいはここで告知しますので、もし気になったら月一回くらいここを覗くといいと思います。なお(ないとは思いますが)私に連絡とか言いたいことがある場合はここのコメントとか Twitter で言及してもらえれば数日程度のラグで反応します。そーれーでーはー。(意味なく業務連絡するのは癖です気にしないでください!)

読書メーター

http://book.akahoshitakuya.com/u/57757
 読書メーターを利用しはじめました。読書記録をつけるサービスです。いままで、とくべつ気にかかった本はここで感想を書き、とりあえず読んだよというものは Twitter で簡単な記録を流すということをしていたのですが、 Twitter で流しても読む人は限られてるし、もうちょっと開けたほうがいいんじゃないか? と思ったので。たぶんいちばん開けた掲載場所は amazon.co.jp (日本語では)なのですが、アマゾンに載せるほどしっかりしたレビューを書くのも疲れるので。いや、なんなら日記に載せるような感想はアマゾンにも載せていい気はするんだけど、そのへんはおいおい検討します、ということで。
 ここにアドレスを載せたのはほかでもない「見てください」ということなんですが、第一義としては「自分の読書履歴を眺めてにやにやする」というのが目的なので他の人が見るのを推奨してるわけではないです。ただ好きな日記を書いてる人がどんな本を読んでるのか?というのは個人的には気になるもので、その個人的な感覚を普遍化して「俺の読んでる本を知りたい人もいておかしくない」と判断し、とりあえずいつでも便利に参照できるようにした次第です。というわけでちょっと気になったら見てみてください。みんなで利用するとより良い。(といって三日坊主で終わる可能性も見逃せませんが……)

ネットを読まずともネットで書く

 ネット、あんまり見なくなったんだけど、しかし何か書きたくなるのは相変わらずだ。まー要するに好きに自己顕示できる場がここだってことだ。ネット/リアルの分けかたに僕がなんらかの絶対性を置いてるわけじゃなくて、もー単純に、今は、ネットで素人が書き散らしたものよりも、プロがよく練って作り上げた作品のほうが読んでて面白いなあと感じるターンだってことだ。あといろいろ本読んで知識入れときたいしね。だからネットの文章はいまは読んでない。ツイッターも、とくべつ気になる書き手の発言以外はぜんぶ無視しています(すいません。でも正直に書きます)。ただ、ネットを見ていないのにネットに書くってのはどうなのよ、という声は聞こえてくる。ネット/リアルの二分法をマイスタンダードに取り入れていないにせよ。ネットに書くということは、なにかしらネットで読むということを伴っているように見えてしまう。それが普通な、一般的なことだからか? つまり、大多数のネットで書いている人は、ネットで読むということもしているからか? とすればこれは義務ではない。まあせいぜい「周りから浮く」リスクを冒している程度の話になる。ネットにおいて「浮く」というのは、まあ程度の加減もありますがそれほど怖くはない(浮いてる人どうしでなんとなくグループを作れるし、なんならグループを作んなくてもいい)。だから僕はしれっと「読みたいと思わないので読まない。書きたいから書く。それだけ」と言ってふんぞり返ってればいいんじゃないか。ふんぞり返ってるというか。そうして自室からあまり役に立たない情報を断続的に発信してればいいんじゃないかな。
 ――というふうに、相変わらず自省は止まらない。言い方が悪ければ、相変わらず自省は怠らない。ま要するに、その行動の正当性を納得ゆくまで検討したい、という欲というか安全確認欲が意識の深いところにあるようだ。これはそこまで悪いこととは思わない。安全確認がとれれば安心だし、こうして文章を綴っていくと少しでも明晰に考えることで精神も安定してくる(いや普段も不安定というほどではないが)。そんなこんなわけで、思い立ったら日記を書く、ということだけは継続的にやってるわけですねー。

懲りずに懲りずに

 もう毎日はしなくなった巡回中。日記を書こうと思って、でも書きたい気持ちにならなくて、ドキドキして「どうしよう」と思った。それほど、なんだろう、俺は日記を書いてるってことを、アイデンティティの大事な部分に据えてたってことか? たぶんそうだ。
 数年前、テキストサイトとよばれる一群のウェブサイトを漁るように読んだり見たりしていた頃(高校二・三年ごろ?)、「人が日記を書かなくなるのは実生活が充実しているからだ」という――常識?みたいなものを何度か目にした。いくつかのテキストサイト、日記サイトの管理人がそう書いていた、気がする。だから「常識」なんだと判断した。それは今でも正しいと思っている。日記なんてしょせん、他に特別にすることがない人間が、苦しまぎれに自分を材料にして遊んでるだけじゃないか、と。
 そういうことだっけ?
 少なくとも、健康な人間はあまり日記を書かないんじゃないか。「あまり」と逃げ道を作っちゃうところに弱気がのぞくが、じっさい弱気だ。最終的な答えが出てから文章をまとめ直す気力はない。やる気がない。これは論文ではないし……というのは言い訳で、やはり人にわかってもらおうとするならきちんと文章を組み立てるべきだと思う。でもめんどくさいのでしません。
 前までは「めんどくさいのでしません」と言いっぱなしではなく、直後に「改善します」とかなんとかくっつけて、ある観点からすると責任逃れをしていたものだが、ごく最近はそれも不誠実なんじゃないか、という気がしていて今日はこう書いてみた。それとも自意識が薄まったのかもしれない。それで同時に日記を書く原動力が弱まったのかもしれない。
 さいきん The Feeling Good Handbook: The Groundbreaking Program with Powerful New Techniques and Step-by-Step Exercises to Overcome Depression, Conquer Anxiety, and Enjoy Greater Intimacy (Plume) という本をちょこちょこ、辞書を引きながら読んでいる。七百なんページあるので気になったところを拾い読み、というスタンスで。それで、さっきから書いてることとちょっと繋がりがあるようにも見えるので取り上げてみる。もちろん以下に浮かんだ考えは全面的にこの本に影響されてるわけではない。この本に関連することをそのときよく考えていたから本を読むし、その読書によってその考えが深まったり修正されたり転回されたりもする。そうしてまた考える。このモデルは理想化されているが、まあだいたいにしてそう。……んー何が言いたいのかわかんなくなってきた。
 で、自意識なんですけど。過剰な自意識はたびたび精神の健康によくない影響をもたらす。その件の本に書いてあったんですが、「べき言明」つまり自分の義務を述べて、「私は○○する/であるべきだ」のように意識するのは良くないんだそうです。それが失敗したとき罪悪感や不満を招くから。で、この「べき」を課してるのは自意識の奴なんじゃないかなあと思う。ここで自意識は他者と自分を比べるところの自意識を言います。自分のことが知りたければ/理解したければ、結局は他者を見るしかない。自己は他者との差異から読み取るしかないから。自分に関心が向く自意識は、同時に他者にも関心を向ける。で、さらにこの自意識が自分に多くを求めるタイプだと、他者と比べて自分はだめだという方向に行ってしまい(劣等感はここからくる)、自分はこうあるべきだ、という義務をやたらに課してしまい、疲れたり却ってうまくいかなかったりする、と。いちおう注意ですが、途中からは僕の思いつきの立論です。
 この話も詳細に語ろうとすれば語れるんだけど、他の話がしたいので省略。で、思ってるのは、すると自分をよい生活に導くには過剰な自意識は大いに障害になるんではないか、と。僕はそんな自意識を次第に捨てつつあるように見える。次第に次第にですが。そして余計な自意識から逃れて、ふつうに本読んだり音楽聞いたりという、自分用語でいう「真人間」に、少しずつ近づいているように見える。「大人」といってもいい。もちろん本当の大人にはずっと遠いだろう。でもなんか、この自意識の薄さが所謂ものわかりのいい大人という感じなんですよね。で、その関係で「無駄足」である日記もあまり書かなくなってるんじゃないかと。
 ……いや、こんだけ自分のことぐちゃぐちゃザワザワと書いてきて、なにが「この自意識の薄さ」なんだって話ですが。ただこれでいいのかっていうと即座に承認はできなくて、自意識は倫理(社会のではなく、自己の)に忠実であろうとする傾向がある。「大人」が見逃してるところを、「本当にこれでいいのだろうか」と問い続ける。それは答えの出ない問いだ。「○○は△△であるべきだろうか」と問うのだ。たとえば、昔の僕が「はてなに移行するべきだろうか」「Twitterを始めるべきだろうか」と思っていたように。これに対して大人は「そんなの答えは出ないよ」「やってみて問題がなければそれでいいじゃん」と言って、他の、成果が出そうな分野へ向かう。倫理学の本を見ていて思うように、「べき」という規範を決定することは現実の在り方に基づかなければならない。つまり倫理というのはかなりあやふやな、はっきりした答えのないものに見える。具体的な現実を見ながら、少しずつ詰めていくしかないように見える。だから問題の外から考え続けるだけの自意識は非生産的で、不要なものだ。……
 と言えればすっきりするんだが、どうもそうとは思えない。あの非生産的な問いが、違和感の蓄積が、いわば「プロセスとしての意味」をもっている、ような気がする。キザな言い方をしてしまえば、そういったプロセスは「生を厚くする」ようにも思う。///以上。ぐだぐだとすいませんでした。今、「プロセスだの何だのといって、美化された過去を正当化してるだけじゃないか?」という疑念があって、これが当たっているかどうかは別として、しかし「大人」の生活と「厚い生」は、この複雑な多様な人間のなかであれば並列して存在し得るのではないか、と考えてます。にしても人生経験薄スギな僕が「厚い生」とかなんとかいうのはヘタな文系みたいで良くないっすね。うーんなんだろ。この年になって人生を語るとは。あるいは、この年から、かも。

どーもー

 どーもー。日記書かずに一週間くらい経つと「どーもー」とか、オヒサシブリックな挨拶を投げかけたくなる私でした。今もそうです。ここ数日はツイッターも見ず日記サイト巡回もせず、したがってそのためにパソコンをつけず快適な日々を過ごしていたのかい?と問われれば「う、うん……ww」と照れながら答えて気持ち悪がられるしかないのでございますが、これを読んでいる皆様はいかがお過ごしか。いや嘘でした。僕はほんとうに皆様がどのように過ごしているか心底から気になった思念と情念の発露として「いかがお過ごしか」と問うたのではなかった。僕は僕はただ、自分が少しく特殊な経験というつまり簡単な実験を過ごしたものだから、さて「はて僕以外のひとたちはどのように過ごしたろう」という連想レベルの思いが脳裏をよぎり僕はそれをハエを叩くようにさほどの考慮なしで掴んで文字にしてしまった、と、そういうだけのことなのでした。ちなみに僕はハエを叩かない派ですがこう書いたところで何かが立派に見えるわけではないのはちょっと考えてみる価値がある。
 長っげ(なっげ、と読んでいただきたい)。あと腹減りました。弟が台所を占拠しております。僕が先手を打ってラーメンを煮始めなかったのが手落ちで、つまりお互い周辺条件を知っての台所占拠ゲームであれば均衡解は容易に得られるはずだった。今日はしかしインターネットを見始めてしまったもので仕方なかったのです。ところで今のはゲーム理論を念頭に置いた表現だったのですがあいにくゲーム理論をきちんと勉強したことはないのでこんなあやふやな表現となってしまったわけです。関係者ならびに当事者、傍観者、撮影者、闖入者、謀叛者、落馬者、落武者のみなさまに謝罪申し上げます。軽々く「罪」と言っちゃうのもどうかと思うのよ。そもそも
 そもそもとか書いてるうちに台所が空きました。ひさしぶりに日記を書いてみたらひさしぶりの日記の常として当初書こうとしていたことの一割も書けていなくて、でもこの脇道ソレ具合がなんか、うれしいね!とこれもやはり久ぶり日記の常として思ってもいます。今日は出掛けるよていだったのでたぶん、出掛けます。いじょー。