本の感想をどこに書くかっちゅう話ですが

 久しぶりにはてなダイアリーを更新するに至りました。わあしたす(私です)。
 本の感想を置く場としては、

 が、さしあたり挙げられるが、いちおう「この本読んでみようかな」という人の目に触れるよう、その人のなんらか役に立つよう考慮していちおう書いていますので、人目に触れないタグ打ちサイトは却下。読書メーターも個人的にはふつうにネットサーフしてるぶんには目に入らないので却下。アマゾンはレビューを競う場のように見えて足がすくむので却下。ツイッターはすぐ流れてしまうし個々の発言がパーマリンクとして残るのが(それが検索に引っかかるのが)感覚的に好きじゃないので却下。というわけでここに上げることにしました。はてなダイアリー、検索には引っかかりやすいし。はてなキーワードで一書籍の被言及箇所をまとめて見れるし*1

*1:僕のブラウザーはアマゾンのISBN番号からはてなキーワードのページに飛べるようにしてある

責任と自由 (2004)

責任と自由 (双書エニグマ)
 学校でこれ読んでたら学科の同期がきてタイトル見て「違うな」と言ってました。まあなんだか哲学というよりは評論っぽいタイトルだとは思います。中身は堅実な哲学的議論。
 われわれは自由なのかどうか、という問題を考えるとき、責任というのが大きな壁になる。まったく自由でないとすれば、責任が生ずる余地がなくなるのではないか?という心配だ*1。本書では、因果的決定論を認めても「責任」、そしてそれを可能にするある種の自由は成り立つと主張する。
 順を追って、くどいくらいていねいに書かれているので、一読して内容はつかめるはず。予備知識もいらない。形而上学的議論はなしで、あくまで現実の感覚に沿って、「責任」を中心に据えて自由の問題を追っている。

*1:かつてここに書いた:http://d.hatena.ne.jp/misunderstanding/20091002/1254487145。ここでは「権利」と言っているけど、似た話だと思う

おしらせ:また戻ります

 ふっとしたきっかけから、またタグ打ちサイトの妄誕Fの更新を再開することにしました。もちろん例によっていつまで続くかは自分でもよく分からない。アドレスは http://that.bufsiz.jp/ 。尚、アクセシビリティのために音楽とか本の感想のたぐいやまとまった内容を持つ記事はこっちに上げていく取り決めです。テキストサイトの旧体勢だね。

神聖かまってちゃん『友だちを殺してまで。』

友だちを殺してまで。
 最近の音楽をあまり聞かない僕がこんなこと言うのもおこがましいんですが、この作品で21世紀の日本のロックがようやく開けたかなあと感じた。個人的には好きじゃないけどアルバムタイトルに「。」つけちゃうのも今風だよね。
 「ポストYouTube時代のポップ・マエストロ」と言ったのは相対性理論だが、彼らは先走りすぎだ。今はニコニコ動画世代、VIP世代まっただ中ですよ。このアルバムに入ってる楽曲のそこかしこにのぞく単語を見よ。「ジャポニカ学習帳」「めざましテレビ」「キラカード」「計算ドリル」etc. とにかく世界が狭い。ていうか正直身につまされた。今の若者は世界が狭いんですよ。僕もまえに小説書こうとしたとき舞台が通学路だったもんね。家―学校、これが基本ライン。いやこれのどこがニコニコ動画でどこがニュー速VIPなのか理解に苦しむが、まあ最近の若者(もちろん、僕も含め)の閉塞感ってそういうことだと思う。世界が狭い。ていうかモロに高校生くらいの時分はそうですね。夏休み、もの寂しいけどすることもなければ「チャリをこぎ続け」て昔の好きだった人思い出して行き場なくなってるくらいが関の山ですよ。いや歌ってるのは23歳なんだけど。でもやっぱそんなもんなんじゃないかと思う。怖いな。
 で、歌詞が口語体というのは昔っからあったと思うんだけど、しかしまあここまで恥ずかしげもなく世界の狭さを露呈するような、真の意味でリアルな歌詞というのは近年のものでは少なくとも僕は初めてだった。あらためて見渡してみるとわれわれ、ずいぶん縛られてますよね。無言の縛りがある。「空気」ってやつだ。なにもないのに道路で立ち止まったら不審がられるわ、建物の壁をまじまじと見ていたら今度は自分に注目が集まるわ、電車に乗って座席につけば本を読むか目を閉じるか下を見ていないといけないという視線の不自由。うんぬんそんな感じで万事に様式は決められていて息苦しい!というのは僕のさいきんの実感。すいません、今見直したらそれは関係なかった。でも実はちょっとだけ関係はあって、すべての行動が様式化されている今(表現活動もっすかね……)、もはやわれわれは(高校生の僕は)外の世界というやつを想像さえできずにいて、だからふと閉塞感、みたいのを感じ取ってみても、そこからどうすればいいのかはわからなかった。マジですよ。マジ。飼いならされてるってやつだと思います。社会に。いや社会に悪気があったのかどうかは知らんけど。ともかく、学校と家との往復路のうちでしか動こうと考えられなかった僕の実感にぴったりきた歌詞でした。
 でまあそんな感じです。正直言っていまさらこれに共感というほどもないんですが(いや、あるんですがど真ん中ではない)、それにしてもわれわれが直面し、また後の世代も直面していくだろう閉塞感を素直に描き出したアルバムだという意味で2010年代に出される必然性ある作品だと思った。ぜんぜん書いてませんが音楽としても優れてます。技術の衒いはないが演奏は安定していて楽器の素敵なフレーズがいくつか見出されたしボーカルもたぶん実はうまい。ディレイかかりまくりで何言ってるのかわからん「死にたい季節」が好き。

大人その5

 そうだもう一つ。先日テレビで映画を眺めていて、ふと「物語の味わいかた」みたいなもののコツを掴んだ(気がする)のですが、そしてそれはそれで喜ばしいことなのですが、でも「物語を物語としか消費できない」型にはまってる感じがして、おおげさに言えば不安にもなる。抽象的な書きかたで申し訳ないが、ある手順にしたがって(まあ、具体的には複数人物がいて、そのキャラクターであるとか他との関係とか彼・彼女が直面する事態とそれに対する行動とかに注目して)映画とか小説とか漫画とかを“処理”すると、それが「物語の意味」として捉えられてくる。「物語の意味」は、それを作品の主張として取りだすこともできるし、また作品を語るにも一定の軸を確保できて便利である。たぶんこれも“科学的な取り扱い”の一環だろう。
 だが、それと引き換えに失われるものもあって、それは要するに作品の自由な受容、とでもいったようなものだ。本を読み始めた頃、僕は(やや単純化して書くが)物語がどうとかいうことを意識せず、単にその本や映画などを楽しんでいた。そこで何を受け取っていたのかはもうほとんど思い出せないが、「物語の意味」とはまた別の質をもった何かだった……気がする。というか、そう言いたくなる。プリミティヴな体験には、洗練された受容にはないなにか特別なものが含まれている、そう思いたくなる。事実それは正しいのだと思う。でも、大人の立場から今は(試験的に)言ってみたい。その「なにか」って、単なる新奇さではなかったか、と。目の前に新しい世界がいま開けていることへの驚きや喜び、そういうものが原初的な体験に固有なものではないだろうか。
 そして、“それだけ”だとするならば、洗練された物語の処理によって失われたものに対して馳せる思いは、単なる郷愁、ということになりそうだ。確かに、新しいものに触れたときの固有の感じ、は、もう二度と同じものを感じられはしない。でもそれって「戻ってこない」ってだけの話であって、物語の読みかたを覚えたことによって背景に退いてしまった類のものではない。実際のところ、僕はしばらく、1〜2年くらい?の間、小説の面白さというものを喪失したままでいて、いやまあそれは大げさな表現なんだけども、小説に対して積極的な態度をとれないでいた。それは、今までの流れでいえば、新しい世界の魅力にひかれてどんどん本を読んでいた時期が終わって、単に小説というジャンルの本があるという世界に投げ出された、と説明することができる。
 そうして一度、モチベーションのない状況に落ち込んだあと、どうやらまた小説を読める状態にふたたび引き上げてくれそうなのがこの「物語の読みかた」だ、ということ。小説を読む楽しみに新しく気づかせてくれそうな考えかただ、と。そんな整理でした。もちろんこの話とは別に、小説の楽しみかたが「物語を読む」だけではない、ってのは直感的にわかる。たとえば実験的なメタ文学みたいのもあるし。だから本の読みかたは複数あっていいし、それらもいつか獲得できたらと思う。
 (それにしても高校生の僕がこれ読んだら怒りそうだなー……)

大人その4

 なんかさいきん、比喩で言えば実存に迫るような日記がないですが(妄誕Fに)、これは問題の扱いかたが変わったんだと考えてください。べつに問題を抱えてないわけじゃない。それを、形式的に、いわば科学的に、建設的に扱うすべを少しずつ覚えてきた、というだけです。まあ、というだけで失うものも大きくあるんだろうけど、それはいつか取り戻されるもので、今はたんなる発展過程じゃないかなあとも予感している。楽観主義か。

哲学書に意味はあるか?#1 問題提起と方向づけ

 もはや一箇月くらい前の話になりますけども、せんじつ部活の同期がとあるきっかけでハイデッガー存在と時間』を読んでおりまして(彼は政治学科の学生だが哲学っぽいのも好きらしい/どのくらい読んだのかは知らんが……)、で言われたこと。曰く、哲学書はなんども同じことを繰り返し述べているが、もっとスマートに書けないものだろうかと。あるいは、もっと一般受け的に、哲学書は簡単なことを難しく書いているがこれは如何なる要因によってであろうか、と。
 これを(改めて)突きつけられた僕は返答に困惑しました。けっきょく当座はもにょもにょ何かをつぶやいたあと、「俺もよくわかんない」で済ませたのだが、しかしそれで終わらせるのも心持が好くない。僕も、少なくとも学部卒業までは哲学者のはしくれなので、「哲学が何の役に立つのか?立たないのか?」に代表される、或る意味ではプラクティカルな、しかし同時に哲学の根幹に刺さる深刻な問い(かどうかは人によるんでしょうか……)に対してはお粗末な扱いをしたくはないと思っています。
 で、こうして先の問いに対する答えを探っていきたいと思うのですが、考えられる応答の仕方は
1.内容を直接否定する。すなわち、哲学者は簡単なことを書いているのではない。簡単に見えるのは表面的にしか読めていないからだ、云々。
2.内容を認めた上で、それがなぜそうなっているか、それがいかに詮無いことであるかを説明する。
3.内容を表面的には認めたうえで、その意義(つまり、簡単なことを難しく書いているのは――)を説き明かす。
 少なくとも以上の3つが方針として挙げられます。次回からはこれに沿ってこの問題を考えていくことにします。