哲学書に意味はあるか?#1 問題提起と方向づけ

 もはや一箇月くらい前の話になりますけども、せんじつ部活の同期がとあるきっかけでハイデッガー存在と時間』を読んでおりまして(彼は政治学科の学生だが哲学っぽいのも好きらしい/どのくらい読んだのかは知らんが……)、で言われたこと。曰く、哲学書はなんども同じことを繰り返し述べているが、もっとスマートに書けないものだろうかと。あるいは、もっと一般受け的に、哲学書は簡単なことを難しく書いているがこれは如何なる要因によってであろうか、と。
 これを(改めて)突きつけられた僕は返答に困惑しました。けっきょく当座はもにょもにょ何かをつぶやいたあと、「俺もよくわかんない」で済ませたのだが、しかしそれで終わらせるのも心持が好くない。僕も、少なくとも学部卒業までは哲学者のはしくれなので、「哲学が何の役に立つのか?立たないのか?」に代表される、或る意味ではプラクティカルな、しかし同時に哲学の根幹に刺さる深刻な問い(かどうかは人によるんでしょうか……)に対してはお粗末な扱いをしたくはないと思っています。
 で、こうして先の問いに対する答えを探っていきたいと思うのですが、考えられる応答の仕方は
1.内容を直接否定する。すなわち、哲学者は簡単なことを書いているのではない。簡単に見えるのは表面的にしか読めていないからだ、云々。
2.内容を認めた上で、それがなぜそうなっているか、それがいかに詮無いことであるかを説明する。
3.内容を表面的には認めたうえで、その意義(つまり、簡単なことを難しく書いているのは――)を説き明かす。
 少なくとも以上の3つが方針として挙げられます。次回からはこれに沿ってこの問題を考えていくことにします。