懲りずに懲りずに

 もう毎日はしなくなった巡回中。日記を書こうと思って、でも書きたい気持ちにならなくて、ドキドキして「どうしよう」と思った。それほど、なんだろう、俺は日記を書いてるってことを、アイデンティティの大事な部分に据えてたってことか? たぶんそうだ。
 数年前、テキストサイトとよばれる一群のウェブサイトを漁るように読んだり見たりしていた頃(高校二・三年ごろ?)、「人が日記を書かなくなるのは実生活が充実しているからだ」という――常識?みたいなものを何度か目にした。いくつかのテキストサイト、日記サイトの管理人がそう書いていた、気がする。だから「常識」なんだと判断した。それは今でも正しいと思っている。日記なんてしょせん、他に特別にすることがない人間が、苦しまぎれに自分を材料にして遊んでるだけじゃないか、と。
 そういうことだっけ?
 少なくとも、健康な人間はあまり日記を書かないんじゃないか。「あまり」と逃げ道を作っちゃうところに弱気がのぞくが、じっさい弱気だ。最終的な答えが出てから文章をまとめ直す気力はない。やる気がない。これは論文ではないし……というのは言い訳で、やはり人にわかってもらおうとするならきちんと文章を組み立てるべきだと思う。でもめんどくさいのでしません。
 前までは「めんどくさいのでしません」と言いっぱなしではなく、直後に「改善します」とかなんとかくっつけて、ある観点からすると責任逃れをしていたものだが、ごく最近はそれも不誠実なんじゃないか、という気がしていて今日はこう書いてみた。それとも自意識が薄まったのかもしれない。それで同時に日記を書く原動力が弱まったのかもしれない。
 さいきん The Feeling Good Handbook: The Groundbreaking Program with Powerful New Techniques and Step-by-Step Exercises to Overcome Depression, Conquer Anxiety, and Enjoy Greater Intimacy (Plume) という本をちょこちょこ、辞書を引きながら読んでいる。七百なんページあるので気になったところを拾い読み、というスタンスで。それで、さっきから書いてることとちょっと繋がりがあるようにも見えるので取り上げてみる。もちろん以下に浮かんだ考えは全面的にこの本に影響されてるわけではない。この本に関連することをそのときよく考えていたから本を読むし、その読書によってその考えが深まったり修正されたり転回されたりもする。そうしてまた考える。このモデルは理想化されているが、まあだいたいにしてそう。……んー何が言いたいのかわかんなくなってきた。
 で、自意識なんですけど。過剰な自意識はたびたび精神の健康によくない影響をもたらす。その件の本に書いてあったんですが、「べき言明」つまり自分の義務を述べて、「私は○○する/であるべきだ」のように意識するのは良くないんだそうです。それが失敗したとき罪悪感や不満を招くから。で、この「べき」を課してるのは自意識の奴なんじゃないかなあと思う。ここで自意識は他者と自分を比べるところの自意識を言います。自分のことが知りたければ/理解したければ、結局は他者を見るしかない。自己は他者との差異から読み取るしかないから。自分に関心が向く自意識は、同時に他者にも関心を向ける。で、さらにこの自意識が自分に多くを求めるタイプだと、他者と比べて自分はだめだという方向に行ってしまい(劣等感はここからくる)、自分はこうあるべきだ、という義務をやたらに課してしまい、疲れたり却ってうまくいかなかったりする、と。いちおう注意ですが、途中からは僕の思いつきの立論です。
 この話も詳細に語ろうとすれば語れるんだけど、他の話がしたいので省略。で、思ってるのは、すると自分をよい生活に導くには過剰な自意識は大いに障害になるんではないか、と。僕はそんな自意識を次第に捨てつつあるように見える。次第に次第にですが。そして余計な自意識から逃れて、ふつうに本読んだり音楽聞いたりという、自分用語でいう「真人間」に、少しずつ近づいているように見える。「大人」といってもいい。もちろん本当の大人にはずっと遠いだろう。でもなんか、この自意識の薄さが所謂ものわかりのいい大人という感じなんですよね。で、その関係で「無駄足」である日記もあまり書かなくなってるんじゃないかと。
 ……いや、こんだけ自分のことぐちゃぐちゃザワザワと書いてきて、なにが「この自意識の薄さ」なんだって話ですが。ただこれでいいのかっていうと即座に承認はできなくて、自意識は倫理(社会のではなく、自己の)に忠実であろうとする傾向がある。「大人」が見逃してるところを、「本当にこれでいいのだろうか」と問い続ける。それは答えの出ない問いだ。「○○は△△であるべきだろうか」と問うのだ。たとえば、昔の僕が「はてなに移行するべきだろうか」「Twitterを始めるべきだろうか」と思っていたように。これに対して大人は「そんなの答えは出ないよ」「やってみて問題がなければそれでいいじゃん」と言って、他の、成果が出そうな分野へ向かう。倫理学の本を見ていて思うように、「べき」という規範を決定することは現実の在り方に基づかなければならない。つまり倫理というのはかなりあやふやな、はっきりした答えのないものに見える。具体的な現実を見ながら、少しずつ詰めていくしかないように見える。だから問題の外から考え続けるだけの自意識は非生産的で、不要なものだ。……
 と言えればすっきりするんだが、どうもそうとは思えない。あの非生産的な問いが、違和感の蓄積が、いわば「プロセスとしての意味」をもっている、ような気がする。キザな言い方をしてしまえば、そういったプロセスは「生を厚くする」ようにも思う。///以上。ぐだぐだとすいませんでした。今、「プロセスだの何だのといって、美化された過去を正当化してるだけじゃないか?」という疑念があって、これが当たっているかどうかは別として、しかし「大人」の生活と「厚い生」は、この複雑な多様な人間のなかであれば並列して存在し得るのではないか、と考えてます。にしても人生経験薄スギな僕が「厚い生」とかなんとかいうのはヘタな文系みたいで良くないっすね。うーんなんだろ。この年になって人生を語るとは。あるいは、この年から、かも。