排除の論理(つまり、多様性を好ましいと言うなら自分と違う他者を認めなければっ)

 書くことがない。ということで日記を書いてみようと思います。むろん探してみると話題はあって、どんどん遠くまで書いていける気がする。ただそれは強いてあなたに伝えるべきことではないので、とりたてて「書くこと」ではない。かつて、僕は(非政治的な意味で)世間に問いたいことを日記に託してウェブに投げかけていた。今はどうか、っていうと、だんだんと、いや今から見ればかなり古いときから、広い意味で「おもしろい文章」を書きたい、という意識に傾いている。おもしろい文章っつうと昔テキストサイトの一部の人がいってた「おもしろい」に対する執着を思い起こしてなんか違うなあ。こうもっとこう、たとえば詩を読んでて感じるようなおもしろさです。意味のおかしさではなく、読み取られるおもしろさ、違いを発見すること、っちゅうか。でも中身の薄いことをあまり語ると煙たがられるので止めます。
 話は変わる。世の中に……というか人間のなかに、言葉で語り難いものがたくさんある。語り難いというのは、なにか触れちゃいけない気がするということではなく、語るのが技術的に難しい、ということです。これは学習者がしばしばぶつかる「何がわからないのかがわからない」という課題に似ている。この課題に対する有効な解決策は僕は知らなくて、せいぜい周辺の知識をふやして空白を逆に浮かび上がらせることを考えつくくらいです。んーつまり、この語り難いというのは自分がなにを語ろうとしているのかが見えない、ということである。なにか(自分にとって)重大な問題を垣間見た気がする、しかしそれは瞬時にフェイドアウトしていってしまう。たぶん集中力がないんでしょうね。その疑問は通俗的でないゆえに、それを語る言葉を自分で作り出さなければならないかもしれない。それは文学者の作業だ。負担がかかる。そんなわけで困ってます。
 語れば語ろうとするほど対象が遠のいていく、という実感を覚えることはかなり少ない。対象について言葉を重ねることは明晰な認識に近づくことだとおおむね考えている。だけど他方で Twitter の 140 字の制約は、われわれが明晰に語れる(ように見える)ようにしてくれて、心地よいと思ってしまう。僕はものごとを明晰に捉え、考え、語りたいという欲求を自覚している。だから Twitter は或る意味で楽園だ。ウソです。僕は Twitter に永住したいとは思わない。 140 字で語れることなんて高が知れている。 140 字にまとめられた背後には、見捨てられ切り捨てられた幾多の疑問の死骸が横たわっている。なんで今ポエマー的に書いてるかっていうと遊んでるだけです。まあとにかく、 140 字でじゅうぶんに語れることってのもあるけど、それはむしろ生活のごく一部でしかない……というのは言いすぎかもしれないが、やはり Twitter でしゃべるときは Twitter で扱い切れないものをことごとく切り捨ててる、というのは事実だと思う。そんなわけで僕にとって Twitter はつかの間の明晰感を味わえる、休息所みたいなもの、ですかねー。
 あと、タイトルは日記内容にあわせてつけたのではありません。