言外の意味によるコミュニケーションの齟齬

(部室のロッカーに貼ってある写真を指して)「この写真、○○くんが撮ったの?」「ああ、剥してもいいですよ」
 っつう次第で困惑でした。○○くんの写真をほめるつもりで言ったが、言下にその目的を無効化されてしまい、うろたえた。僕はこのとおりコミュニケーションに不得手なので、この後ちぐはぐな返しが出たのは言うまでもない。まあ控え目さが有利な性格となりうるこの社会とか、分不相応なマネをしないのが理性的とか、良い点より悪い点をあげつらう方が容易だとか、そういうことはあって自分の作品を卑下したくなるのはわかるけど、こちらとしては好意を端っから折られたのでやはり残念な思いがした。
 これでなんで失敗したのかなあというと、主に僕が言葉足らずだった、というのが挙がると思う。言葉足らずというか、暗黙の言語の介入を広く許している。暗黙の言語といったが、要するに「言外の意味」のことです。そして、困ったことに言外の意味はしばしば発語の本意を担う。というか日常の会話では文の内容じたいがそのまま「言いたいこと」である場合はむしろ少ないのではないかな。上の例で言うと「この写真、○○くんが撮ったの?(なかなかいいね)」ないし「この写真、○○くんが撮ったの?(そしてこんなとこに貼ったの?早く剥がせよ)」というふうに。ちなみに前者が僕の内心での意図でした。で、前者にも後者にもとれるような発言をしたのが今回の失敗のひとつだった。僕はふだん言外の意味ってやつを充分考慮せずにしゃべってるので、先の発言は純然たる Yes/No 疑問文として処理してくれることを期待してたんですよねー。「この写真、○○くんが撮ったの?」「そうですけど」「俺はけっこう好きだよ」と。しかし実際はここで見てきたように、発話された文はどこかにある「本当の意図」への道しるべとしてはたらき、その内容は発話の中心的「意味」にはならない。ここで相手が発話意図の判断を誤るとコミュニケーションの齟齬が生じるわけです……。
 そういうわけでした。以上てなもんで、この話の教訓としては〈日常の会話においては、“言外の本意”をうまく導くよう言葉を選ぶべし〉ということになりますね。いやまあ「どうやって選ぶんだ」という問題には答えられてないんですが。もう一つの道として、言葉を尽くして自分の言いたいことを説明する、というのもあります。「この素敵な写真、○○くんが撮ったの?」みたいに。まあどちらかと言わず、場面に応じて適用しやすいほうを適用すればいいんでしょうねー。