空虚感と「死にたい」

 空虚感きてます。おはようございます。ちょっと死にたかったです。前日ろくに事を成さず、だらだらと過ごして翌日正午ごろに起床し、カーテンを開けて快晴の青空をみると死にたくなります。今日はこの「死にたい」かんじを問題にしてみる。
 この次第を顧みるに、空虚感が「死にたい」の引き金になっている。この二つの感覚のあいだはやや飛躍があるように見える。その飛躍を自分なりに埋めてみます。(なんらかの原因から)空虚感がうまれる。空虚感は文字通り、とてもむなしい感じです。より個人的な具体的な記憶に沿っていえば、自分が何をしたらいいのかわからなくなる。或いは自分は何をしても意味がないように思われる。何をしても空虚だし、かといって何もしないとまた空虚、というわけです。実際は何かしているとこの空虚は解消されていることが多いのですが、空虚感につつまれている時分は「何かする」という気にはならない。(その点、この空虚さ自体を目的として書きつづることを思いついた今日は、そしてそのためのツールが揃っていることは、運がよかったのかもしれない)。
 考えてみると、空虚感はそのまま「死にたい」と同じことなのかもしれない。一方から他方を導ける気がするのだ。「死にたい」に含まれるロジックは何だろう。死にたい。この世から消えてなくなりたい。ではそれはなぜだろう。空虚感から生きていてもすることがない、生きていても意味がない。生きる理由がないから、いっそ死んでしまいたい。そんな感じかなと思う。もちろん「生きていても意味がない」と「死にたい」は、まだ飛躍があります。生きる理由がないからといって、死ぬ理由があるわけではない。強いて言えば生きているときに受ける空虚感による居心地の悪さつまり不快感から逃れたい、という理由づけはできますが、自分の現状況を考えるとそれはあまりに安易で近視眼な選択肢だ。ちょっと苦しいからといって死ぬのはあまりにばからしい。
 こういうとき、問題なのは自分がこのように正常に、理性的に判断できなくなっていることだ。だいたい、この空虚さというのは多くの場合なんらかの activity すなわち活動を始めることで消えうせていくものだったりする。しかし、自分が空虚さのさなかにあるときは、活動をする気にはなれない。今はこうして自分の「死にたい」を「ばからしい」と嗤ってやることもできる。しかし空虚感につつまれ、ナチュラルに「死にたい」とつぶやいている僕は、自分のその言葉をもしかしたら「ばからしい」と客観視してやることはできても、その客観視には実感が伴わない。まあ常識人が常識的に考えたらそうなるだろうけど、程度の気分なのだ。やはりそのときの僕は、死ぬのが最良だ、とは言わずも、死なないけどじゃあ何をすればいいの、何もすることがないし、でも何もしないとつらい、という思いが最上層にある。この空虚感の中だけでものごとを判断してしまうのだ。
 この空虚感の本質はまだまだ見えない(それには多量の自省が必要にみえる、あるいは精神医学や心理学をあたってもいいけど)が、これでいちおうの行動の指針は立てることができる。今までの話を整理すると、 (1) (原因はともかく)空虚感をおぼえるときがある。これには「死にたい」気分がともなう。 (2) 実はなんらかの活動をすることでこの空虚感は消えていく。 (3) しかし、そのときは長期的・広域的にものを見て判断する能力に欠けており、何かのひょうしで活動に至るまでを居心地わるく過ごすことになる。といったところ。そういうわけで、とりあえずの解決策としては「なんでもいいから活動をはじめる」ということになる。ただこれだけでは不十分なのは前まえから繰り返していることで、空虚さに包まれ視野狭窄に陥っている自分に「なんでもいいから動こうよ」と言っても多くのばあい無駄だということは心に留めておかなければならない。判断と行動のギャップってやつだ。自分語でいうと「動けない問題」だ。
 ……そうすると「起き抜けに空虚気分にならないような毎日の生活を!」ということになる、わけだが……。もちろん最終的に目指すのはこっちなのですが。すくなくとも今日は、日記を書くことで空虚感を解消したいちおうの成功例なので、それを記事にして成功例とはっきり認識しておくのは悪くはないかな。