ことばの違和感:「〜させていただく/〜していただく」

 いつのまにか普及していた敬語表現。あたりまえだが、べつに他者に敬意を払うのが悪いとは言わない。だが、この表現を耳にすると、すごく直感的に言うと「うざい」感じがしてしまう。なぜか。とりあえず実例を挙げます。「〜させていただく」から。例えばテレビで俳優のかたが言う。「私は○○というドラマに出演させていただいているんですが、」云々。こういうのを耳にして僕が思うのは、出演させていただいてる……って、自分で出演してるんじゃないのかYO!、ということです。まあもちろん彼/彼女がドラマに出演するのは自らの意思をもってのことであることを彼/彼女自身は否定しないだろう。だけど、その弱気はなんだ? その「スタッフ諸氏の御助け御施しがなければこの無力な私奴はこのドラマに出演することは、いやそれどころかお給料を得て真っ当に生活することすら叶いませんでした、アーメン」とでもいうかの如き表現は(※やや表現が過激ですが、僕の感じていることをわかりやすく示すためです、不快に感じられたらすいません)。まあその認識自体は間違っていないと思うし、今の僕はこれを少しは見習って謙虚になるべきだ。だけども、どうにも「出演させていただいてる」の向こう側に「私は人の助けがなければ無力だ」が見えてしまって、ちょっとへりくだりすぎじゃないの?と思ってしまうんです。まるで自分では何もできないみたいな言いかたに聞こえて、なんかすごくもどかしい思いがする。そんなに立派に仕事をしているのに。
 ただこれ、謙譲表現としては便利で、僕は質問に答えるときの口火の切り方として「お答えします」だとなぜか上から構えた感じがするのでどうしたもんかな、と思っていたんですが、このとき「答えさせていただきます」を使うと有無を言わさず俺が下だ!と言ってる感じがするので便利です。便利ですけど「お前は人の助けを借りなければ答えることさえできないのか」という違和感はあります。正しいっちゃあ正しいのだが。しかしこれを言ってる人の心の中がそこまで謙虚かっていうとそうでもないよね。
 「〜していただく」について。先日、ある駅員が人に道を説明して「△△のところを曲がっていただくと……」と話していたのですが。これは単純に意味としておかしい。彼が道を曲がるのは駅員のためではない。自分が目的地に行くために曲がるのであって駅員のために曲がってあげるのではない。これは額面通り取らず含意を汲むと尊敬表現にあたりますね。僕はこれは「〜させていただく」が謙譲表現として形骸化してきた結果、その応用で「〜していただく」が尊敬表現として使われ始めたと見てます。それにしても「していただく」「させていただく」と、他者との関係の中でしか物事を為すことができないみたいで、主体という考え方は消えつつあるのだろうか、とか変な心配をしてしまうなあ。
 しかし困ったことに、これらの表現への違和感の元は「額面通り意味をとると変」であることにあって、その原因はといえば「表現が額面通りの意味をとりやすい」ことで、だから解決策としては「表現が形骸化して違和感を感じなくなるほどなじむ」ことになってしまうのではないか。ことばは常に移り変わっていくもので、そうしていつだってあいまいだ、ということなのかなあ。なんか無常だなあ。