ことばの違和感:「心が折れる」

 これ、あまりに一般に浸透しすぎてるので奇妙に思ってるんですが、そんなに由々しき問題でもないのでしょうか。あまり言及されてるのを見たことがないので……と、こころみに検索したらけっこうヒットしたわ。まあいいや。僕は自分のために書く。今後この表現がかなり強く定着して、自分も無自覚に使うようになるかもしれない……それは厭なのです。未来において自分がそれに疑問を持たなくなって結果幸せになるとしても、かつて自分が厭だと思っていたことをいつか無自覚に為してしまう、ということを今考えるのは厭だ。なので、今ここで違和感を表明しておく。
 で。結論?から言ってしまえば、「心が折れる」は「意志が折れる」あたりのマチガイであると思います。そして、この表現のどこがおかしいかというと、そのイメージがおかしい。要するに「心が折れる」という状況を想像することが難しい。心が何か硬いものであるかのように表されているからです。「意志が折れる」ならば、「固い意志」という表現から連想されるように、少しの打撃では壊れない、強固なものが意志であるようなイメージを持て、だからそれが折れるのは自然であると思える。しかしこの点「心」は、どちらかというと柔らかいもので、打撃を受ければ「ひしゃげる」「ゆがむ」あたりの反応が妥当でしょう。たぶん多くの人は「心」を心臓のイメージでとらえていると思うのですが、そうすると心臓が「折れる」くらい硬いというのは感覚に合わないわけです。形状を考えても「折れる」というのは……ねえ。
 なんでこうなったかっちゅうのは諸説あると思うんですが、僕が考えているのは「挫ける」がゆるく変移した結果「折れる」になったという説です。「挫ける」というのも「折れる」を含意しているので「心が挫ける」もしっくりくる表現とは言えませんが、「挫ける」には「勢いが弱まる」という意味もあるし、表現の感じがやや即物的でなくなったぶん、違和感は薄れています。それで、「心が挫ける」という表現がある程度定着したのち「挫ける」が「折れる」に変化したと。あるいは、自分の意思を曲げて譲歩することを「折れる」と言いますが、それにその決定主体である「心」がくっついたんでしょうかねえ。「心から折れる」なんていう表現ならわかるけど。
 ……と書いてから検索先を見たら、どうやら格闘技における表現から出たみたいですね。「もともとは『腕を折られても心が折れなければ負けではない』とする不屈の格闘精神から転じたモノ。」 (http://g-labo.to/log/2003/200309110930.html) だそうです。なるほど。だがそれにしても、今これを使ってる人たちのなかでその文脈を踏まえてる人がどのくらいいるのか?と考えると、やっぱりそれで納得して引きさがるわけにはいかないわけで。とにかく僕が言いたいのは、「心が折れる」を(文脈ぬきで)使ってる人はその表現に違和感を感じないのか? ということです。日本語の乱れとかいうことではなく(いわゆる乱れた日本語を僕はわりと許容しているつもりです)、単純に論理的に感覚的に表現としておかしいんじゃないか、と。もっとおおっぴらに疑問を持たれるべき表現だと思うんですがねえ。