私の怠惰#1

 数回前の日記で述べたように、なにか書くことに意義を感ずる近頃であるので、そして実際のところ「書きたい」欲が芽生えている昨今でもあるので、ライフワーク的になにかを、気が向いたら向いたぶんだけ、書いていきたいと思います。たぶんまとまった仕事はここではしないつもりなので、特定のテーマを掘り下げたいとは考えていますが、ちょこちょこ連番で日課のように掘り下げていこうと思います。では、吐き出しタイム。
 先日、 Twitter でこう書いた:

時間と余裕はあるのに、やりたいことをしていない。なんだろうこの矛盾、というのがこれからのテーマであり、かつ、かねてからの問題を洗練したものだと思う。

http://twitter.com/elmman/status/16629540023

 こう。 Twitter は考えていること、考えたことを 140 字に凝縮・洗練、そして余計なアレコレを切り捨てた形で提出し、各々の文才を競う(言いすぎだ!)場なので、まあ言いたいことの核心は先の引用部分にほぼ余すとこなく載せたつもりではいます。載せたつもりでいるし、だからこれ以上言うこともない、なくて僕は困っています。「それでもまだ言い足りないことがある!」という気分にならない。まあまあそれでも同じ内容を繰り返すくらいはできるので、咀嚼目的で書いてみる。
 引用にある「かねてからの問題」というのは、日記でも Twitter でも何度となく述べてきたそしてこれからも述べていくであろう「本が読めてない」に代表される自分の生活の不満足、時間を有効に使えず気づけばパソコンの画面の上に視線を散歩させる等の所謂「残念な」(この言葉嫌いなんだけどな!)(さらに言えば「嫌い」ということを言うためにわざわざ嫌いな言葉を使ってみたって側面もある)えー改め、残念なふるまい、要するに時間を有効に使えておらず未来が過去に錆びていくのをじいと見守っているばかりの我が生活に嫌気がさしている、しかるに有効な対策を提出できているわけでもなく、奮起する気力と意欲があるわけでもなく、ついつい目先の快楽に吸い寄せられてしまう怠惰な日常、というような問題です。すごいな。さすがに同じ内容を何度も語ってるとこのくらいの異常な長さの修飾節群も難なく滑りだしてきやがる。しかも本題はそこではない。
 先日、ふらりと自分の旧日記を眺めていて、(我ながら)なかなか鋭いなと思わされるものがあった。これ。実に一年以上前の、大学受験が終わったとこの日記。短いし決定的な記述がないので引用はナシ。内容を要約すると、僕は“今”を感じながら生きるのがどうも好きらしく、だから“今”を忘れてしまうタイプの楽しみ――例えば勉強、読書、えーてーつぇー (etc.) ――に気が向かないのデス!、といったこと。で、これが中々正確な分析だと思ったわけです。いや、思っただけで今はこれ以上広がりはないんですが。そしてそれと関連して、自分が動けていないことへのもう一つの分析として「長期的広域的な視点をもてていない」というのがある。記事でいうとこれと、 Twitterこの発言。これもまあ、たぶん正しい。それに正しい正しくない以前に、そういう視点がなければ勉強もなにも(少なくとも、自発的には)しないだろうと思う。近いあるいは遠い未来との連関を見据えて、僕は計画的に、あるいは打算的に勉強やら読書やらをする。楽しさはおまけみたいなものだ。付属物だ。……いや、はじめっから楽しさを求めて勉強・読書・ etc. をすることもある。それとこれとの違いは、精神の高揚ではないかなと思う。抽象的ですね。精神が高ぶっているときは、読書の意欲もでてくる。だるーく動かずにいる時分は、やはり何も進まないことが快楽に思われているフシがある。こいつは慣性の法則とのアナロジーで理解できます。動いているときは物事をなす勢いがあるし、止まっているときに動きだすにはエネルギーが要る。慣性をつけること。それも重要だ。環境の整備が必要になる。……元に戻ると、勉強や読書は打算であるという側面もある。そりゃそうだ現前の緩慢な快楽のほうがよっぽど確かだ。或る意味では勉強・読書は生きるため仕方ないものではある。勉強読書しなければ生活の質は下がるはずなんだから、でも打算もしなきゃならない。といったこと。しかしそれを認めた上で、気持ちよく勉強・読書するにはどういう環境を整備しどういう習慣を身に付ければよいかを見出すのはとても有用なことだろう。
 で(すいません長くなって)、冒頭の引用をもう一度。「時間と余裕はあるのに、やりたいことをしていない。なんだろうこの矛盾」。このどのへんがどのように「かねてからの問題を洗練したもの」なのか僕にはよくわからん。でも標語としてはとてもいいと思う。ちょっと反省してみると、これは僕のうちにある厳密な現状認識とは少しずれている。時間と余裕は、ないとはいわんが学科の勉強など少しずつ忙しい。勉強や読書が果たして「やりたいこと」と積極的に称していいものかは疑わしい。あとこれは論理学的な矛盾ではない(別にかまわんが……)。でも見方をすこしゆるくすれば、時間は余りあるし(何も授業がびっしり入っているわけではない)、やりたいかやりたくないかと言えば、やはりやりたい。そして、できることをしていないのは明白に矛盾だ。そう考えなおすと、この標語はネガティヴな点が目についてしまいやすい自分の現状を前向きな射程をもって述べ直している、なかなかに優れたものであるというか僕はしばらくこれを念頭に置いて生活しようと思っているのです、のでした。これより長くなるのが心苦しいのでやや無理に終わらせます。