教育語りと自分語り

 教育語りは自分語りにほかならない、という話ではなく。昨日 twitter で教育について書いてたらゆるやかに反応がきて、それが心にひっかかったので僕はひきつづき教育について書いてみた。でも埒が明かなかった。まあ「教育」はすごくゆるやかなテーマではあって、唯一解に近づくのがすごく困難な領域ではある、そして僕は唯一解をついつい求めてしまう理系思考(また無意味にレッテル作ってしまった)の人間なので、まあ埒が明かないのは当然ではあった。でまあ結論としては、名古屋大学高等教育研究センター - スタッフ紹介 - 戸田山和久から引用すると:

これだけ専門分化が進んだ世の中で、こと教育についてだけは、誰もが自分はそれについて語る能力と資格があると思ってしまう。これはとても不思議。そして、教育とその処方箋について語るとき、誰もが易々と科学的・学問的方法を放棄して、「私の子ども時代はこうだった」とか「私の授業実践はこうだから」と、個人的な思いをあっけらかんと語る実感主義的態度に堕してしまうこともこれまた不思議。

ということでございますね。これは教育学に関与している人ならだれもが思うことらしいです。まあ当たり前だわな。ということで僕は教育については語りません。今は語りませんがいつか語ってみたい気持ちもあるので、春休み中に以下の本を読みたい:
教育学 (ヒューマニティーズ)
 話がかわります。脈絡は忘れたが布団のなかで考えていた。ここで日記を書くことは自己正当化の作業にほかならない。僕は日記を書くことで自分を正当化している。ただこの「正当化」は、自分が本当は正しかったのだ、とあとから理論をこじつけることではなく、そのとき自分がどういう意味でどういう脈絡で発言したのか、を明らかにしていく作業ね。
 ということを考えていたのだが脈絡を忘れて結論だけ出てきたので広がりがない。まあいいや。