いきなりですが

 似たもの同士なる関係について語ります。というのも、うちのリンク元をちぇっくしていると、いろんな「似たもの同士」にまつわる悩み・疑問が寄せられており……つまり「似たもの同士」を含むワードで検索してきている人がちらほら見受けられるようになったので、これをブログ名としている私としてはひとつ「似たもの同士」に対する見解を示しておくのも一つの義務であろうと、こう思い立ったわけであります。検索ワードをいじるのは自意識過剰なテキストサイターの習性です。では現場に返します。


 ……ハイ! こんばんは前野良沢です! たとい書いてるのが朝でも昼でもこんばんはと挨拶をブチ込むのはテキストサイトの習いだよ〜。なに、テキストサイトテキストサイトうるさいって? ハッ! (Ha!) これは失礼。でも二回ほど同じ普通名詞(普通名詞!)を出しただけでうるさい呼ばわりするなんて、意識しすぎなのは君のほうじゃないのかい? そう、モニタをじっと見てる君のことだよ! オットそんな恐ろしい眼で見ないで……。さてお芝居もたいがいにして、悩み相談のほういってみようかぁ〜〜〜ィ? ヒウイゴー!

僕たちは似たもの同士だこの世界で (2.13)

 でここまで書いてみたんだけど、かつてのテンションは出ないね。書生肌が無理やりおちゃらけた雰囲気出そうとしてるみたいで空回り気分。というわけで無理はせず、ここからは前野良沢がふつうにお便りを紹介していきます。ちなみに前野良沢は江戸時代の医学者の彼ではなく単なる同姓同名です。さらに言えばこの文章を書いているのは前野良沢という名前ではありません。長くなりましたすいませんたまにささやかな冒険のひとつもしたくなるんです。では以下。
 どうも倒置気味になっているところを気にかけると、詩歌の引用かなにかではないかと思われます。僕たちは、似たもの同士だ。この世界で。倒置の意味は汲み取れなかったので無難な語順に直します。僕たちはこの世界で似たもの同士だ。「この世界で」もいらない気がします。日本語の文は特になにも指定がなければ全称命題になるから。「あの世界」は想定してないと思うし。ということで私に読みやすいようにすると「僕たちは似たもの同士だ」ということになります。わざわざ倒置にした発語者の意図を汲む努力をせず、解釈もへったくれもないですね。だから私は小説が読めないのですよ……。
 気を取り直して。内容自体は正しいとしか言いようがない。似ているということは共通の要素をもっているということですが、まず僕たちはみな人間である。この点で似ています。また人間であるゆえ多く共通のふるまいの様式をもちます。たとえば一人の他者を特別視してものすごく惹かれたりする。さみしければ他者との連帯を求める。くだらないことで落ち込んだり元気になったりする。そういうのはだいたい人間の性質から来てるといってもよいでしょう。というわけでこれはどうしようもなく正しい。
 インターネットとブログやツイッターなどの自分発信インフラの普及により、結構みんな似た様なこと考えてんだな、ということが明らかになりました。生活の最も私的な部分、公生活では口にする機会のない考えが、今日のインターネットでは無数に飛びまわっています。今や「私だけだろうか」は「お前だけじゃねえよ」という連帯の確認を誘発するための定型句となっております。ネット上の知人と話が合うのはむりやり合わせているからではなく、生活の根底のところに共通するものがあるからです。こうして均質性が強く認識されている現在、今度は同じように見える私とあなたの差異を回復する作業、私とあなたの距離を注意深く測る心構えが必要になってくるでしょう。

似た者同士は長く居れないの? (2.16)

 気づかれたとは思いますがここまでいいかげんなことばかり書いています。本意まじりではありますが細かいことは検討してない放言です。以下もそんな感じです。無責任な前野良沢くんのことですから……。
 「似た者同士は長く居れないの?」ということで御座います。文意、なんとなく汲みとれるのですけど素直に読解しろと言われたら白旗をあげざるをえません。「居る」って何ですか。古語ですか? まあ古語でも現代語でもおおまかな意味はおなじなので気に病む(?)ことはありません。要するに長めの期間、同じ場所にとどまっているということで、かつ似た者「同士」ですから二人いるのでしょう。つまり似たもの同士の二人の愛は長くは続かないのでしょうか……ってことですね。愛ってなんですか?
 さて本題なのですが私には「居った」経験がないものでうまく答えられません。似たもの同士で、だけでなく特定の相手と親密に付き合ったことがないので、そういうものの性質や内実がわからない。それでも放送事故を起こさないために憶断だけでも述べておきますと、そいつは程度問題ではないでしょうか。自分のコピーかと思われる人間を毎日眺めるのはつまらないし、鏡に囲まれて暮らしているようで辛いことです。反対に自分の常識がまったく通じない人と毎日コミュニケーションを図るのもまた疲れます。適度に円滑にコミュニケーションが図れて、かつ自分にない視座を見せてくれる・自分にない世界をもっている人、そんなバランスが重要ナノデハナイデショウカ。すいません……自分で書いててしらじらしく思えてきたもので。
 結論としては、なるべく波紋を立てずに暮らしていきたい向きは自分に近いひとを選べばいいですし、さまざまなイヴェントが欲しいひとは自分からやや遠いひとを選ぶとよいのではないでしょうか。ていうか付き合う相手なんて選べるもんじゃないと思うのですが……そうでもないのでしょうかね。

似た者同士好きになる (2.21)

 なんか……朝にこの日記を書きはじめたんですが、ちょこちょこ書き足したりゲームしたり Twitter 眺めたり本読んだりご飯食べたりしてたら夜になってた。文章書くのって時間掛りますよね。そういえば今日はもう一つ本の感想も途中まで書いててそれで時間くったそれはそれとして、「似た者同士好きになる」だそうです。何が知りたいのかよくわからないというか好きになったならそれでいいのではないかというかそれはそれでしかないのでわないかという気がいたしますが、まじめにお答えしますと。似たもの「を」好きになる、ということは法則作れるくらいにはあります。特に、自分がマイノリティだと感じている人は、そのマイノリティの部分を共有するひとについ惹かれてしまうことが多い。多いっていうか筆者たる僕の経験上、なのですが。マイノリティ*1でありつつ、根底ではつながりを求めている……というか、同じものを持つひとを見るとついテンションが上がってしまうもの。マイナーな趣味を共有することを考えるとわかりやすい。「おお!お前も○○好きか!」と。それで親近感を覚えると。
 まあマイノリティの程度もいろいろですから、多かれ少なかれ自分と共有するものがある(「共有する」と意識化される程度には万人共通でない性質を)相手にはなんらか親しみがわく、というのはよくあることと言えます。だからこの検索ワードは正しいと思う。ただ似てるだけじゃどこか空しいのは前述のとおりで、どこか自分と違うものを持っていることがより強く惹かれる要因になるのでわないでしょうか! ついでに言うと、「違う」だけでなく、自分より「優れている」と認識してしまうとめんどうなことになります。円環構造に突入します。いや。こっちの話でした。過去形で。なんで違うものがあるといいかっていうとよく分からないんですが、他者と交わるというのがそもそもそういうことを含むし……ということで差異、世界とのつながり、あたりで説明できそうな気がします。この日記なんだったんでしょうね。

*1:といっても Twitter などの内面共有インフラが発達した今日では、それも大したまいのりてぃーではないことが判明しつつありますが。まあ学校のクラスで多数派をとれない程度のものと考えてください