私の怠惰#2:反省の仕方

 外は強い雨。レポートの骨子でも作るかぁとパソコンをつけ、習慣的に Twitter にアクセスする、が Over Capacity になっており、おいおいまたかよ Twitter は速やかにサーバを増設しろよというかそれで商売成り立ってんの? といつものように思ったが、この「いつものように思った」の数度の蓄積ののち思いつかれたのは 2ch とのアナロジーにて「専ブラ使えってことか」であり、でも一いちソフト探してー吟味してーダウンロードしてーインストールしてーの手間を惜しんで段階をすっとばし自分の日記を訪れたところ、新しく★がついていて、僕は★がついた記事は読み直す習性があって、で読み直したところ、ああ連作の記事だったんだよなあということを思い起こし、ちょっと続き書くことがあったので書いてみる所存です。長すぎた。僕は大人になりつつあるのでこういう次第はもう省略してもいいんじゃないかと思い始めているのですが、皆さんどうでしょうか。まあ書きたかったら書けば? てなもんですが。
 で
 タイトル、反省の仕方。ちかごろ反省にもやりかたがあって、よい反省とつぎにつながらない反省があるのだなあと気づかされる機会がありまして、そこからちょっと書く。
 ひとつは、先日大学の部活である発表をしたときのこと。まず内容をすっとばして大雑把な印象だけ述べれば、その発表は成功とは決して言えないもので、ていうか端的に失敗だった。それはたぶん、誰の目にも明らかだった。発表している自分がたぶん一番つらかった! で、そのあと或る先輩に「どこがマズかったと思う」と訊かれたので、「説明が下手だったので」に類することを返した。ここで先輩はこの返答に不満だったようで、まあ正確には何を言ったのか憶えてないんですが、「『説明が下手』だと何でも片付いちゃうもんなあ」のようなことを言われたんだと思う。なるほどこの言葉は僕の眼を開かせるに充分な的確さをもっていて(くどい言い方ですいません)、反省は反省でもこれは(あるいみで)逃げの反省だなと気づいた。すなわち、説明が下手でしたというのは、発表の失敗を発表者の能力に帰属してしまうことで、すると「これからどうすればよいか」という内容に対して「能力を高める」もっと極端な言い方をすれば「努力します」という答えしか言っていないことになる。それに、その視点を離れてみると、他に反省すべきとこはいろいろとあったのだ。単に能力の問題だけじゃなくて、僕の発表には大きくハズしていた、実際に発表してみるまで気づかなかった一点があった。
 ここまで書いて気づいたがこれは怠惰の話じゃなかった。……ただ、僕にとって怠惰の話というのは self-improve の話と不可分にくっついているので、つまり広くよき生活を実現するには、というテーマが背景にあるので、そんな文脈で納得していただければ、と思います。
 戻りつつ繰り返すと、「私の能力がなかった(だから能力を高めます)」という形での反省は、それに対して具体的な指針が出にくく(○○をすれば必ず能力が高まる、というものはない)、どこがどう改善されたのか、改善し切れなかったのかが明示的でなく、それゆえ改善の成果を評価できない、そうすると次もどうしたらいいかわからん、という行き止まりの反省なのでマズい、のでした。それに、たぶん、能力ってのはそれを単独で伸ばすものではなくて、いろいろな具体的な問題への対処のなかで成長していくものだと思う……そういうものかもしれない。ともかく大きく気づくところあった体験でした。
 それから、もう一つ。ほとんど内容の繰り返しになってしまうのですが、次の本を読んでてなるほどと思ったこと。

脳が冴える15の習慣 記憶・集中・思考力を高める (生活人新書)

脳が冴える15の習慣 記憶・集中・思考力を高める (生活人新書)

 生活をよくするソフトウェアたるもろもろのテクニックだけじゃなく、それを動かすハードウェア面がしっかりしてなきゃダメや、ということに思い当って数ヶ月前に購入し、先日ふと読み終えた本。この pp.162-168 において失敗の分析のしかたについて書いてあって、気づかされるところがあった。要約すると(いやまあ要約必要ないくらい明快な書き方がされてるんですが、引用っちゅうのもアレ(?)なので);大きな失敗はさまざまな要素が含まれており、それを分析するのは難しい(抽象的な反省になりがち)。それよりも小さな失敗の分析を重ねて、自分の脳の傾向を割り出すとよい。と。これはさっき述べた内容とは(改めて書いてみると)必ずしも一致するものではないですが、それでも反省のしかたに対する示唆を含んでいるように思う。
 両者を比べて共通項を引きだすと、「反省は具体的なものでなければならない」というところですね。さらにその内実は、「具体的な反省点を出す→それに対する具体的な解決案を出す→実行する→その結果をみてフィードバックを行う」というモデルにあります。そっかー自分は抽象的に反省し抽象的な対策を考えてばかりいたから進歩が不明瞭だったんだなーと。以上ビジネス書とか読んでればベーシック中のベーシックと言われそうな内容でしたが、個人的に進歩の取っ掛かりになりそうだったので大きく取り上げてみた次第です。もう 50 分くらい書いてます。ではまた。

今日の近況

 ブログのリンク元はほぼ毎日見てるんですが、見てると Twitter からのアクセスがこう日に日に積み重ねられていて、つまり何らかの可能性に賭けてこのサイトを訪れてくる人が一定数いるということに気づかされて、なんか書かにゃならんかなあと思って筆を執ったすなわちキーボードを叩いている、そんな状況です。

テストのこと

 うちの大学ではすでに前期試験が始まっておりまして、本日もテストを受けてきたところなのでした。普段の学習にはいまひとつ身が入らなかったラテン語(読みたい文献がないので……。英語〔とドイツ語〕のルーツを知る、それからローマ人の精神を垣間見るという意義はあるが)を暗記で乗り切り、……なんか思うのですが外国語習得は語の変化を暗記する気概と辞書を引きながらの読解の忍耐力(と十分に頭を働かせる余裕)が大事だなあと。第一外国語である英語の習得は学校がある程度やってくれてしまうので忘れちゃったけど。でまあ受験生の頃は単語をプレーンで(つまり、英単語とその訳語の対応のみを)暗記するのが好きではなかったんだけど、近頃はそれも手段と考えれば効果は高いかな、と思い始めている。あくまで文法に奉仕するものだと考えれば。まあ外国語学習の方法なんてそれこそ人の数だけあって、これも本屋に無数に置かれている指南本(の大半)と変わりはしないわけですが。

夏のこと

 夏にしたいことはたくさんある。まあ、改めて書き出してみれば大した数にはならないだろうが、自分の普段の処理能力・活動力を考えればタスクの方が多すぎるだろうと思うくらいには、たくさん。具体的には「○○を勉強する」タイプのものが 3 つくらい、あと例の「本を読む」と、バイトして何万円か貯めるのと、楽器を買うのと、あとここには書きづらいこと。これだけでもちょっと無理入ってるように見えるのだが、本日自主的に受け取った夏休みの宿題(九月にある勉強会のテキスト……ドイツ語の文献)がなかなか、バカにならない量で、なんか、バカにならないなあと思ったのでした。大丈夫なのだろうか。こいつ終えるだけでも大変だぞ。

あとは

 あとは疲れたのでここで終わりです。初めての選挙、どこに票を入れようか検討しなければなりません(今から)。それでワ。

ソニータイマーで楽しい会話を

 ソニータイマーという概念がある。商品の購入→使用→廃棄→使用のサイクルを速めるために、ソニーが自社製品を一定時間で壊れるように作っている(いわば時限爆弾を仕込んでる)のではないか、という話があって、ソニーを中傷するのによく使われる概念ですね。概念っていうか言いがかりっていうか都市伝説というか、ともかく根拠は弱いと思うんですが、そんな考え方が今なお生き長らえていることについてちょっと思いを巡らしてみる。
 なんでこんなこと言いだすのかというと、僕の使ってるソニー製のCDプレイヤーがそろそろ寿命なんじゃないか? ということがあって、ハッこれって巷に謂うソニータイマーでわないか、と思い浮かべたのがきっかけです。これ、買ったのは、えーと 2 年半くらい前でしょうか。まあ 2 年半も動いてりゃ十分かも知れないです。でもうちのスーパーファミコンはまだ動いてますし(買ったのは '90 年代前半)。いや、比較対象としてどうなの、という誹りからは逃げられないけど。
 google で「ソニータイマー」と入れると、間髪入れずに「ソニータイマー 都市伝説」という検索候補が提案される。これはソニータイマーって都市伝説だよね、という考えに基づいて検索をする人が多いと解釈され、このようにソニータイマーというやつは one of 都市伝説であるとの意識もまた根付いているのだと考えられますが、他方でこの「都市伝説」を聞かされると「言われてみれば、そうかも」と納得してしまう自分も依然として、いる。
 その理由としては、第一に“確証がもちづらい”というのがある。とりあえず個人で購入して一定期間使って「あ、そろそろだめかな」と思いながらぼんやり使い続けて完全にダメになったら捨てる、という消費スタイルのうちにある限り、ソニータイマーの存在を確定することはできない。一般に所有期間が長く集中して観察する機会がないうえ、比較対象を設けない(複数のプレイヤーを並行して使う人は少ない)ので違いに気付きにくいし、他社製品とあらためて比べてみるにはコストがやや高い。だからこれを信じる理由もないけど、かといって拒む理由もないので、思い当たるフシがあるとなんとなく自分の思考機制に組み入れてしまう。
 そこで、このような、なんとなく納得してしまうタイプの風説を検証し結果を公表する機関が作られてもいいのではないか……まあ要するに「白黒ハッキリしようぜ」と少し思ったが、このタイプの風説って信じようと信じまいとそんなに困るものでもない(言われなきゃ気付かないくらいのものだから)ので、検証しなければならぬという積極的な動機がもてない。それなら唯一この風説で困るソニー自身が自分で検証すればいいのかというと、ソニーソニータイマーを否定したと言ったところで信頼は弱いだろう(ソニーが怪しい会社だっていうのではなく、第三者による検証が必要だということ)。
 さきほど「これを信じる理由もないけど、かといって拒む理由もない」ので信じてしまう、と書いたが、では条件は同じなのになぜ信じる方を選んでしまうのか。たぶん、「あると面白いから」くらいのものなのだと思う。ソニータイマー概念を使ってソニーを中傷して遊んだり、「俺のPSPはウン箇月で壊れた」と話のタネにしたり。もちろんソニーにとってはいい迷惑なのだが、ソニーは生身の人間じゃないのでそれの悪口を言ったところであまり心も痛まない。それに、みんな冗談交じりだってことはなんとなく踏まえているし。
 血液型とか S/M の分類もそうですが、「言われてみればそうかも」な話はきちんと検証されていない(というかきちんとした検証があってもそれを読む人は少ない)し、仮に「根拠がない」と言われたとしてもその存在までが否定されたことにはならない。 A と仮定しても B と仮定してもなんとなく納得してしまえるし、その結果によってわざわざ傷ついてしまう人は少ない。そんなわけでこういった風説には真偽という価値から距離をおけるという利点があって、つまりそれが正しいかどうかあまり気にせず使えるという手軽さがあって、だから生き残ってるのかなーと思う。
 まあ概して人びとは事の真偽にはあまり関心がないと……。むしろ、真偽にこだわらずなんとなく話に組み込んでしまえるこういった話題のほうが好まれるのかもしれません。いや、まあ、そればかりでもないとは思うけれども。

私の怠惰#1

 数回前の日記で述べたように、なにか書くことに意義を感ずる近頃であるので、そして実際のところ「書きたい」欲が芽生えている昨今でもあるので、ライフワーク的になにかを、気が向いたら向いたぶんだけ、書いていきたいと思います。たぶんまとまった仕事はここではしないつもりなので、特定のテーマを掘り下げたいとは考えていますが、ちょこちょこ連番で日課のように掘り下げていこうと思います。では、吐き出しタイム。
 先日、 Twitter でこう書いた:

時間と余裕はあるのに、やりたいことをしていない。なんだろうこの矛盾、というのがこれからのテーマであり、かつ、かねてからの問題を洗練したものだと思う。

http://twitter.com/elmman/status/16629540023

 こう。 Twitter は考えていること、考えたことを 140 字に凝縮・洗練、そして余計なアレコレを切り捨てた形で提出し、各々の文才を競う(言いすぎだ!)場なので、まあ言いたいことの核心は先の引用部分にほぼ余すとこなく載せたつもりではいます。載せたつもりでいるし、だからこれ以上言うこともない、なくて僕は困っています。「それでもまだ言い足りないことがある!」という気分にならない。まあまあそれでも同じ内容を繰り返すくらいはできるので、咀嚼目的で書いてみる。
 引用にある「かねてからの問題」というのは、日記でも Twitter でも何度となく述べてきたそしてこれからも述べていくであろう「本が読めてない」に代表される自分の生活の不満足、時間を有効に使えず気づけばパソコンの画面の上に視線を散歩させる等の所謂「残念な」(この言葉嫌いなんだけどな!)(さらに言えば「嫌い」ということを言うためにわざわざ嫌いな言葉を使ってみたって側面もある)えー改め、残念なふるまい、要するに時間を有効に使えておらず未来が過去に錆びていくのをじいと見守っているばかりの我が生活に嫌気がさしている、しかるに有効な対策を提出できているわけでもなく、奮起する気力と意欲があるわけでもなく、ついつい目先の快楽に吸い寄せられてしまう怠惰な日常、というような問題です。すごいな。さすがに同じ内容を何度も語ってるとこのくらいの異常な長さの修飾節群も難なく滑りだしてきやがる。しかも本題はそこではない。
 先日、ふらりと自分の旧日記を眺めていて、(我ながら)なかなか鋭いなと思わされるものがあった。これ。実に一年以上前の、大学受験が終わったとこの日記。短いし決定的な記述がないので引用はナシ。内容を要約すると、僕は“今”を感じながら生きるのがどうも好きらしく、だから“今”を忘れてしまうタイプの楽しみ――例えば勉強、読書、えーてーつぇー (etc.) ――に気が向かないのデス!、といったこと。で、これが中々正確な分析だと思ったわけです。いや、思っただけで今はこれ以上広がりはないんですが。そしてそれと関連して、自分が動けていないことへのもう一つの分析として「長期的広域的な視点をもてていない」というのがある。記事でいうとこれと、 Twitterこの発言。これもまあ、たぶん正しい。それに正しい正しくない以前に、そういう視点がなければ勉強もなにも(少なくとも、自発的には)しないだろうと思う。近いあるいは遠い未来との連関を見据えて、僕は計画的に、あるいは打算的に勉強やら読書やらをする。楽しさはおまけみたいなものだ。付属物だ。……いや、はじめっから楽しさを求めて勉強・読書・ etc. をすることもある。それとこれとの違いは、精神の高揚ではないかなと思う。抽象的ですね。精神が高ぶっているときは、読書の意欲もでてくる。だるーく動かずにいる時分は、やはり何も進まないことが快楽に思われているフシがある。こいつは慣性の法則とのアナロジーで理解できます。動いているときは物事をなす勢いがあるし、止まっているときに動きだすにはエネルギーが要る。慣性をつけること。それも重要だ。環境の整備が必要になる。……元に戻ると、勉強や読書は打算であるという側面もある。そりゃそうだ現前の緩慢な快楽のほうがよっぽど確かだ。或る意味では勉強・読書は生きるため仕方ないものではある。勉強読書しなければ生活の質は下がるはずなんだから、でも打算もしなきゃならない。といったこと。しかしそれを認めた上で、気持ちよく勉強・読書するにはどういう環境を整備しどういう習慣を身に付ければよいかを見出すのはとても有用なことだろう。
 で(すいません長くなって)、冒頭の引用をもう一度。「時間と余裕はあるのに、やりたいことをしていない。なんだろうこの矛盾」。このどのへんがどのように「かねてからの問題を洗練したもの」なのか僕にはよくわからん。でも標語としてはとてもいいと思う。ちょっと反省してみると、これは僕のうちにある厳密な現状認識とは少しずれている。時間と余裕は、ないとはいわんが学科の勉強など少しずつ忙しい。勉強や読書が果たして「やりたいこと」と積極的に称していいものかは疑わしい。あとこれは論理学的な矛盾ではない(別にかまわんが……)。でも見方をすこしゆるくすれば、時間は余りあるし(何も授業がびっしり入っているわけではない)、やりたいかやりたくないかと言えば、やはりやりたい。そして、できることをしていないのは明白に矛盾だ。そう考えなおすと、この標語はネガティヴな点が目についてしまいやすい自分の現状を前向きな射程をもって述べ直している、なかなかに優れたものであるというか僕はしばらくこれを念頭に置いて生活しようと思っているのです、のでした。これより長くなるのが心苦しいのでやや無理に終わらせます。

誰に向かって語るかとか

 深夜にこんにちは。書きたいと思います。っていうかもはや僕の意識は、日々、95%くらいは所謂リアルのことで占められていて、お気に入りの幾つかのサイトも定期的には読んでいなくて、そもそもパソコンの電源を入れない日が多くて、自分との近しさを覚えた幾つかの書き手に対してもなんとなく疎遠に感じられてしまって、で僕の意識が離れていくとそれに呼応するように当サイトの読み手の意識も僕から離れていくようなリアルな感じがして、いや、それは自然の流れというもので「なるべくしてなった」しかも適切な結果をもたらしているとも思うのだけど、でもなんか引きとめるかのように日記を書いてしまうという。話です。でも引きとめるつもりは20%くらいです。残りの80%くらいは、文章を綴ることで自らの思うことをクリアにしていく、明瞭にしていくことの喜びを求めて、てな感じになるでしょうか。喜びっつうと明朗すぎる感じもしますが。
 ともかく、以上のようにエゴイスティックな動機からこの日記の更新を続けることを宣言しましたので、いや、宣言しましたっつって対人的な意味を含めてるわけじゃないんですが、つまりこの宣言は私とあなたのコミュニケーションに影響を及ぼす意図はないのですが、今までのようにそしてこれからも変わらないように、見たいときに見て読みたいときに読んでくれればいいと思います。もちろん、僕は自分の文章が誰かに読まれてほしいと思っています。ではこのへんで。

他者に干渉する

 とりあえず毎日パソコンつけたら何かしら書くことにしています。書くことに「しました」とすると未来永劫にわたる決定に感じられる向きもあるので、「しています」と現在進行形で。
 ここしばらく、自分のいわば世界への態度(俺用語)を見直させるような出来事が多く起こっているようにみえます。たとえば一昨日から昨日にかけて(自分の中では昨日)、ネット上で知ったあること。知ったと言っても、あくまでネット上なので推測の域を出ないにしても、しかしその非確定性もあいまって気にかかっている。今日、朝の電車で考えたのは、もっと他者と積極的にコミュニケートしておくべきだ、ということ。もちろん individual 同士は相互不干渉だ、独立を守るべきだ、というのは通る。しかしその一方で、人間どっか欠けるところがあるもので、そこは互いに補いあっていかなきゃじゅうぶんに生きてはいけないな、とも思う。ふだん僕は他者に余計な干渉をすることを恐れて傍観者の立場で部屋の隅で黙って(あるいは独り言を言って)いるような人間で、でも今回の件など改めて振り返ると自分でも何かしらできたことがあった気がする。気がするし、見渡してみればそういう場面は案外多いとも思う。あとは他者と自己との壁を乗り越える、あるいは取り払う、無頓着さあるいは勇気・少しの大胆さだ。月並みだが、少しずつ進んでいきたいと思う。
 ……と、これで 0 時をまわってしまったので、もう一つの出来事はまた気の向いたときにします。それでは。

無駄ナ事ヲしている暇ハ無イ

 ネットを見てだらだらしてしまうあれ、なんなんだろう。――もうすこし詳しく言えば。
 たとえば僕がパソコンの電源を入れて、準備が整うのを待って、習慣的に自分のはてなダイアリーTwitterを確認する。ここまではいい。さらに思いつくことひとつふたつつぶやいてみる。これもまあいい。しかしそこでほうっておくと、特別見たいわけでもない(でも少し確認しておきたい)サイトやら、俄然欲しいと思っているわけでもない(でも情報は一応見とくか)商品のアマゾンページやらを確認しはじめてしまう。強い志向性を感ずるわけではないので、自然と視線はモニターの上をつるつるとすべってゆく。文章の意味よりも、私がそれをしていることの安心感、みたいなものを求めて。手持ち無沙汰からの無意義な暇つぶしにも近い。もしかすると、電車の中で(黙って頭を休めておればいいのに)携帯電話でくだらんゲームなど始めてしまう人もこれと似たようなマインドを発揮しているのかもしれない。ともかく、こういったことばかりしていると時間がただいたずらに過ぎていって、夜になって焦って課題を始めて、でも予定通りに終わることはほとんどなくて大半のばあい日をまたいでしまって、ようよう終えたときには「他のこともできたはずなのに」という後悔の念に包まれて布団に入ることになる。翌日の目覚めもよいものとはいえない。朝に活動できないということは大きな損失であると経験的に認識しているため、毎日できるだけ早く寝たいと思っている。それには、そもそも寝つけるために日中疲れておくことと、安心して眠れるために十分に活動しておくことが必要だ。であるに、翻ってこうしてつらつら述べてきた如き現状を鑑みるにこれはイカンと。口調が急に変わりましたがこれはアカンと、そう思うわけでございます。いつもの言っていることの繰り返しですが、つまりまだまだ怠惰な生活からは脱せていないと。ていうか近頃はより怠惰になりつつある徴候が見えていてイクナイです。まずは気を引き締めて、今日を充実させることから始めます、というか、それしかできないわけですし。ちょっと抽象的すぎる目標かとは思いますが、とりあえず景気づけとして。